日本史ウオーキング

  4. 三内丸山遺跡(縄文時代)

 1万1千年間も続いた縄文時代の遺跡は、東日本にはいたる所にあり、珍しくもない。しかし、三内丸山遺跡の概要が明らかになった時は、縄文遺跡でありながら、国をあげての大騒ぎになったものだ。この遺跡は、青森県の運動公園拡張工事に先だって、発掘された。

 発掘が進むにつれて、縄文時代の常識を覆す貴重な遺跡だとわかり、運動公園計画は中止。遺跡保存が決まったのは、1994(平成6)年、国の特別史跡に指定されたのは、2000年。史跡としては、ごく新しいものだ。

 東京で開かれた「縄文まほろば博」(左は1996年当時のチケット)を丁寧に見たので、現地に行くまでもないと思っていたが、時代順に旅をする計画を立てたからには、この目で確かめる義務があるような気がした。Kちゃんとふたりで青森の現地を訪れたのは、2003年7月20日。

 青森駅から直通バス30分で、遺跡に着いた。入場料もガイドの説明も無料だ。ボランティアガイドと一緒に歩き出した時に20名ほどいた見学者は、最後には、私たちを含め3人しか残らなかった。

 ガイドの説明が特に悪かったとは思わないが、見学者の目的もいろいろだから、関係ない人を集めてのガイドには、限界があるようだ。

 三内丸山発掘直後の「まほろば博」の展示は非常に優れていたが、当然ながら、現地に立たないと実感出来ない事もある。大型掘立柱建物の6つの穴(右)を実際に見たときは、その大きさに驚いてしまった。

 6つの穴の遺構はそのまま保存され、全体がドームで覆われている。穴の直径は約2b、深さも約2b。穴の間隔はすべて4.2b。穴の中には、直径約1bのクリの柱が残っていた。木は腐食して残っていないことが多いが、この場合は、豊富な地下水と柱を焦がしたことが、保存に役立った。

 巨大な6本柱は、どんな目的で作られたのだろうか。穴しか残っていないので、想像するしかないのだが、穴の直径や深さから考えて、柱の高さは20bと算定できる。

 専門家の意見を聞いて、復元したのが右写真。復元物は、実際の穴の側に建っていた。「用途もわかっていませんが、祭祀的な色彩の強い公共の施設を想定しています」とガイドが、説明してくれた。

 こうした形ではなく、屋根のある物、柱だけが立っている物など復元案はさまざまあったが、今のところは、こんな構築物で落ち着いているようだ。

 発掘は、遺跡全体の40%が終了したに過ぎない。整備中ということもあり、復元物はさほど多くないが、大型掘立柱建物以外に、一般的な竪穴住居が15棟、高床倉庫が3棟、大型竪穴住居1棟復元がされている。

 大型竪穴住居(右)は、長さが32b、幅が9bもある。一家族が生活していたとは考えられず、共同作業所・集会所だったと推測している。三内丸山遺跡の遺構は、すべてスケールが大きいのだ。

 三内丸山では、BC3,500年からBC2,000年まで、およそ1,500年間にわたって、縄文人が生活していた。縄文前期から中期にかけての遺跡。

 「縄文時代は、獲物を求めての移住生活。稲作の開始、つまり弥生時代になって、定住が始まった」というのが、これまでの定説だった。だから、縄文時代の竪穴住居は粗末で、1カ所に数家族分の住居跡しか残っていないことが多い。しかし、三内丸山の場合は、同時期に500人前後が定住していた。しかも、同じ場所に1,500年もだ。冒頭に書いた、縄文時代の常識を覆す貴重な遺跡という説明は、決して大げさではないのだ。

 平安時代が400年、江戸時代と現代をあわせても400年。これらに比べ、1,500年がいかに長いか。もっとも、変化が激しい現在と、変化が緩やかだった縄文時代を同じ物差しで測れないのは、言うまでもない。

 10年前の「縄文まほろば博」を見た時に、メモ書きしたものが見つかった。次のような走り書きがあった。

 本来なら獲物を追って、移動したはずなのに、定住できたのは、三内丸山が周辺の集落と集落を結ぶ交易の中継点だったからではないか。

 動物の骨を分析すると、三内丸山の骨の7割は、ノウサギとムササビ。全国の縄文遺跡での7割は、イノシシとシカ。三内丸山の人が、大型動物の肉を食べなかったのではなく、北海道の戸井町からシカとオットセイの肉だけを運んだ可能性が高い。戸井町の遺跡の狭い範囲から大量のシカとオットセイの骨が出土していることから、戸井町で、集団的に狩猟していたのは間違いない。

 魚の骨もカツオ・ブリ・サメ・サバなど外洋系が多い。海から離れている秋田の池内遺跡からも外洋系の魚の骨がたくさん見つかっている。三内丸山の人々が、内陸まで魚を運んで交易していたのは確実だ。

 巨大な穴に残っていた柱同様、漆器、握り棒もクリの木を使っている。もちろん食料にもしていた。なのに、自然木のクリはない。クリの木のDNA鑑定の結果、同じ遺伝子を持つ木がたくさんみつかり、計画的に栽培していたことがわかった。

 朱色漆器の大皿(左)や櫛も、出土している。漆塗りの工程は、現在も5,500年前も同じで、年間スケジュールがあったらしい。高い技術力に支えられた豊かで余裕のある社会だったことがわかる。

 衣服も毛皮だけではない。植物繊維を編んだ断片も見つかっている。高度な平織りに近いものだ。縄文人というと、毛皮をまとって、野山を駆けている姿が描かれるが、こういったイメージは過去になりつつある。

 「縄文ポシェット」の愛称を持つ編み籠(左)も精巧でかわいらしい。中にはクルミが1個入っていた。10年前の「まほろば博」で目にした中で、もっとも印象に残った遺物だ。

 「もう一度見られる」とワクワクして、遺跡展示室に入ってみた。出土した土器・石器・ヤジリ・魚や動物の骨・ヒスイ・土偶などがたくさん展示してある。ところが、楽しみにしていたポシェットは見あたらない。

 係の人は、「ポシェットは、県立郷土館にあります。実は、ここには目玉文化財はないんですよ」と小さな声で話してくれた。せっかく現地まで来て展示していないのは、詐欺にあったようなものだ。旅行者は、離れている郷土館まで足を運ぶ時間的余裕がない。

 
 土偶は1600点も見つかった。ほとんどが十字形の板状の土偶だ。その中でも特に話題になったのは、大型板状土偶(左)。高さが32aある。この土偶の大きなレプリカが、遺跡の入口に立っているほど、代表的な出土品だ。しかし、本物はやはり、県立郷土館行き。

 左写真3点のうち、朱色漆器がどこに展示されているか聞きそびれたが、展示室になかったことは確かだ。もっとも展示替えをするらしいから、その時になかっただけかもしれない。

 「まほろば博」で印象に残った3点が現地にはなかったので、写真はパンフレットをコピーした。今思うと、「まほろば博」は質の高い展示だった。発掘された当時の高揚感に満ちていた。

 目玉文化財が今どこにあるのか。気になったので、郷土館に電話をしてみた。「保存環境の関係で、今は郷土館にあります。でも、夏に三内丸山の近くに県立美術館が完成するので、そこに移ります」という朗報を得た。(2006年3月11日 記)

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