日本史ウオーキング

  30.  平清盛と平家滅亡 その1 (平安時代)

清盛像 本格的な武士政権が始まる前に、貴族に代わって朝廷の実権を握ったのが平清盛である。左は六波羅密寺の平清盛像。撮影禁止なのでパンフレットをコピーした。

平家物語の冒頭(祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂に滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ)にあるように、平家の全盛は春の夜の夢のごとしだった。

 平清盛が太政大臣の地位に上りつめた1167年から、壇ノ浦で平家一門が滅亡する1185年まで、20年に満たない。

 20年とはいえ、この年月には人間ドラマがぎっしり詰まっている。ゆかりの地はいたるところにあるが、全部を踏破するのは私たちには無理だ。今回と次回の2回にわたって、ウオーキングしてきた6ヵ所だけをまとめることにした。

清盛と源平の戦いに関する主な出来事(太字は訪れた所)

○1156年 平清盛と源義朝が、保元の乱で勝利。
○1159年 平治の乱で、清盛が義朝を破る。嫡男の頼朝は伊豆に流される。
       保元の乱も平治の乱も天皇家と摂関家の内紛。しかし実際に戦ったのは武士だった。
○1167年 清盛が従1位・太政大臣になる。六波羅に広大な邸があった。
       異例に早い出世だったので、清盛は後白河法皇のご落胤だと唱える学者もいる。
○1177年 鹿ヶ谷の陰謀が発覚する。
○1180年 以仁王(もちひとおう)が平氏打倒の令旨(りょうじ)を発する(4月)
       以仁王と源頼政 宇治で挙兵(5月)
       源頼朝 伊豆で挙兵(8月)
       源義仲  信濃で挙兵(9月)
○1181年 清盛死去
○1184年 宇治川の戦い(1月)
       一ノ谷の戦い
(2月) 
○1185年 屋島の戦い(2月)
       壇ノ浦の戦い(3月)
       
六波羅密寺 平家一門が邸を構えていた六波羅には、その名がついた六波羅密寺−京都市東山区五条通り−(左)がある。もともとは、空也上人が951年に建立した寺で平家とは関係ない。

 寺のパンフレットには、「清盛の父・忠盛が、この寺の塔頭に軍勢を止めた」と書いてある。六波羅一帯には、平氏一門の邸が5200余も並んだという。

 都落ちのときに自ら火を放ったので、ほとんどの邸は焼けてしまい、今見る六波羅密寺は、1969(昭和44)年に解体修理をおこなった本堂だけである。


六波羅
 六波羅密寺を訪れたのは、2007年11月。私は3度目だが、お経を手にしている清盛像に、いつも惹きつけられる。「平家物語」に描かれている傲慢で粗野な清盛とは、似ても似つかぬ気品がある。

 実際の清盛は、豪腕政治家であったかもしれないが、決して暴君ではなかったと言われる。継母の池禅尼の願いを聞き入れて、頼朝の命を助けるなど優しい一面もあった。

 遣唐使の廃止以来、経済も文化も停滞していたときに、日宋貿易を始めるなど、世界にも目を向けた。平氏政権はわずかで終わったが、貴族政治を終わらせ、武家政治の先駆けになった意義は大きいと思う。

 1人残らず殺された平家の史跡はないに等しい。六波羅密寺近くの洛東中学校門を入って左側に、石碑が建っていた(左)。「この付近に平氏の六波羅邸があって、鎌倉時代には六波羅探題が置かれた」というような記述がある。

 「一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」の平氏の専横を良しとしない反対勢力は、当然出てくる。すでに1177年という早い時期に、僧俊寛らが平家打倒の話し合いを鹿ヶ谷(京都左京区)で行っている。この陰謀は失敗に終わり、俊寛は流刑になった。

 1180年には、後白河法皇の3男・以仁王が「平家追討の令旨」を全国に発した。令旨を全国の源氏に伝えたのが源頼政。頼政は、保元の乱では源義朝についたが、平治の乱では平清盛についた。清盛に信頼されて、源氏にしては高い位をもらっていたが、次第に平家の専横に不満を募らせていく。源の名を持ちながらも、平氏についたり離れたり。

 しかし、頼政は宇治での挙兵に敗れ、平等院で自害。以仁王も命を落とした。平等院を訪れたのは2007年4月。修学旅行以来何度も訪れているが、鳳凰堂を見るだけだった。この時は、頼政関係をしっかり見てきた。

 源頼政は、最初は義朝と組み、次は義朝を敵にまわして清盛についた。あげくのはては清盛を裏切る。日和見で嫌なヤツに思えるが、墓には花も添えられ真新しい説明板もついていた。有名な歌人でもあったというから、人気があるのかもしれない。

 宇治は、源氏同士の戦い(宇治川の戦い)の舞台でもあった。頼朝は、弟の範頼と義経に義仲追討を命じた。1184年、範頼・義経軍は義仲を破って京に入る。この戦いは、佐々木高綱と梶原景季が先陣争いをしたことでも名高い宇治川のほとりには、「先陣の碑」がある。満開の桜が石碑をおおうように咲いていて、宇治川の水も澄んでいた。壮絶な戦いの跡はみじんもなかった。

 頼政の挙兵と宇治川の戦い。なぜ宇治が源平合戦の戦場になったのかわからないが、京に近い要所なのだろう。

宇治平等院 源頼政の墓 宇治川先陣の碑
しだれ桜と新緑がきれいだった平等院の庭園。このすぐ近くで、頼政が自刃したという。 頼政の墓。台座には、源氏の紋の「笹リンドウ」がついている。墓の周囲がきれいだった。 佐々木高綱と梶原景季が先陣争いをした宇治川には、「先陣の碑」が立っている。

 次に打倒平家の狼煙をあげたのが、源義朝の長男・頼朝である。平治の乱で義朝に勝った清盛は、14歳の頼朝を殺すつもりだったが、継母の池禅尼の願いを聞き入れて、伊豆の蛭が小島に流すにとどめた。結局、この温情が平氏の滅亡につながる。歴史は、まさにドラマだ。

 ウソかホントか、「平家物語」によると、清盛は死に臨んで次のように言ったという。「頼朝が首をはねてわが墓の前にかくべし」。頼朝が旗挙したのは、清盛の死の半年前である。清盛は、一門の滅亡を知ることなく逝った。

 蛭が小島は、静岡県伊豆の国市韮山にある。夫のふるさとや反射炉を作った江川邸にも近いので、私はこの付近をよく知っている。でもKちゃんとNちゃんが初めてなので、2008年3月に1泊して歩いてきた。

 東海道新幹線の三島から、伊豆箱根鉄道に20分乗ると韮山駅。徒歩15分で蛭が小島に着く。駅からの歩道はきれいに整備され、史跡の説明タイルが敷き詰めてあった。「この方角で見たのは初めて」と、2人は富士山に感激していた。

源氏再興の旗挙げタイル 韮山のマンホール 富士山を眺める頼朝と政子
韮山駅からこのようなタイルが続いている。 韮山のマンホール。富士山と反射炉とイチゴ。 富士山を見ている頼朝と政子

 今の蛭が小島は、島でもなんでもなく、イチゴ畑など農地の一画にある。当時は、洪水のたびに氾濫する狩野川の中州だったらしい。頼朝は、1160年の2月から1180年8月に旗挙するまで20年間をここで過ごした。14歳から34歳まで。

 流人とはいえ、さほど監視されていたわけではない。天城山で巻狩りをしたり、箱根・伊豆山・三島の3社詣りなども楽しんでいた。北条政子と結婚したのも、流人中のことだ。

 以仁王の令旨を受けて、頼朝が挙兵したのは1180年8月17日。この日は三島大社のお祭り。警護が手薄になることを見越して、目代の山木兼隆の館に攻め入った。これが「源氏再興」の、最初の勝利である。

 「蛭が小島」見学の後に、山木館の跡を探した。何人もの人に聞いてたどり着いてみれば、荒れ果てた草ぼうぼうの地に、「兼隆館跡」と書いてある石だけが残っていた。右書きだから、戦前のものだろう。

蛭が小島の頼朝と政子 山木兼隆の館跡 三島大社
「蛭が小島」に立つ2人の銅像 山木兼隆の館跡にある石碑 三島大社の祭りの日に旗挙げした。

 次回は、平家物語のハイライトでもある一ノ谷・屋島・壇ノ浦の訪問記。もうちょっとお待ちいただきたい。(2009年5月14日 記)

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