日本史ウオーキング

  31.  平清盛と平家滅亡 その2 (平安時代)

 その1では、源範頼・義経が、源義仲を宇治川で破って入京するまでを書いた。その2は、京都を断念した平氏が安徳天皇を連れて西国へ都落ち、滅亡するまでの記録である。2009年4月11日から13日まで、精力的に回ってきた。

 日本史ウオーキングというより、「平家物語ウオーキング」が正しい。パンフレットやガイドブックの記述は「平家物語」に基づいていて、作者すらはっきりしない物語だどいう事を忘れそうである。物語のウソを覆す力がない私たちは、物語ウオーキングするしかない。

 西国へ向かった平氏は、一ノ谷に城を構えた。神戸市須磨区一ノ谷町として今もその名が残っている。まず訪れたのは、JR神戸線の「須磨駅」から徒歩15分ほどの須磨寺(須磨区須磨寺町)。一ノ谷の東にある。宝物館に敦盛愛用の「青葉の笛」があり、境内に敦盛の首塚や熊谷直実と平敦盛一騎打ちの「源平の庭」がある。どうしても、はずせない所だ。

 16歳の敦盛は、沖の船をめざして海に乗り入れたところ、直実に勝負を挑まれて引き返した。2体の像はその場面。直実が敦盛を捕らえてみると、わが子と同じぐらいの若武者。命を助けようとしたが、源氏軍が迫ってきたため、心ならずも首をはねた。今でも、歌舞伎・能楽などで度々上演される名場面である。熊谷草・敦盛草など、植物にも名を残している。

 須磨寺見学後に、須磨浦公園を目指した。この公園一帯が一ノ谷の戦い(1184年2月7日)が行われた古戦場である。急斜面の山と海に挟まれた一ノ谷は、源氏を迎え撃つ平氏にとって難攻不落の地のはずだった。ところが、背後の山から義経軍に急襲されて大敗する。

 義経のとった策は、鵯越(ひよどりごえ)から一ノ谷への「坂落」である。「まづ30騎ばかり、まっさきかけて落とさりけり」。260bの鉢伏山頂上(左)に立つと、古戦場と須磨の海が、眼下に広がっていた。急襲された平氏の狼狽が目に見えるようである。

 訪れた日は、桜が満開。土曜ということもあって、ロープウェイに乗るにも15分待ちするほど花見客であふれていた。天気に恵まれたことに感謝すべきなのだが、平氏滅亡の悲哀に浸るには賑やかすぎた。

 須磨浦公園駅から少し西よりの国道沿いに敦盛塚(一ノ谷町)がある。首は須磨寺に、胴体は敦盛塚に埋葬されたという。もし熊谷直実が懇ろに葬ったとしたら、そんなややこしいことをする筈がないとチラと思う。

須磨寺の「源平の庭」。右が熊谷直実、左が平敦盛。 鉢伏山からの一ノ谷古戦場と須磨の海。

敦盛像 直実像 敦盛塚

 次は、山陽新幹線で西明石から岡山へ。岡山からJRマリンライナーで高松に向かった。四国に初めて渡った30年前は、宇高連絡船だった。2度目は明石大橋をバスで渡った。今回は瀬戸大橋を通るJRを使った。瀬戸内海に浮かぶ島をすり抜けるように、列車は走った。

 高松駅で頼んだ観光タクシーは、私たちの希望どおりに、ゆかりの地を何ヵ所も回ってくれた。州崎寺(義経の身代わりになって討死した佐藤継信の菩提寺)・祈り岩(那須与一が扇の的を射る前にこの岩に祈った)・駒立岩(的を射るときにこの岩の上で駒を止めた)・船隠し(平家は源氏来襲に備え、軍船を入り江に隠していた)・古戦場展望台屋島寺・血の池(源平合戦で血のついた刀を洗った池)など。

 一ノ谷で敗れた平氏は、安徳天皇を連れて屋島に拠点を移した。今は陸続きになっているが、当時は島である。海上での戦いを得意にしていた平氏には、願ってもない拠点だった。安徳天皇の内裏も作った。

 1185年2月17日、義経は暴風雨の中を摂津(大阪)から出帆し、徳島の勝浦に上陸。19日、陸路で庵治半島に到着し、民家に火を放った。その火を見た安徳天皇内裏にいた平氏は狼狽。海から攻めてくることを想定していたからだ。一ノ谷の戦いで懲りていてもよさそうなのに、又も義経の奇襲を受けたことになる。屋島の戦いで敗北した平氏は、さらに西に向かう。1185年2月21日のことだった。

 主な戦場は、屋島と庵治半島をはさむ海上である。「扇の的」の逸話もこの海でのことだ。平家の小舟に立てられた扇を、馬上の那須与一が見事に射落とした。源平双方から歓声があがったという。中学生の頃にこの逸話を聞いて「なんて呑気な戦いだろう」と思った。ホントかどうかはともかく、祈り岩や駒立岩が残っている。

 屋島の古戦場めぐりは、ほとんど人に会わず快適だった。泊まった宿は瀬戸内海に面している。ベランダから見た小島の数々や高松市内の灯り、夕日に赤く染まった海も忘れられない。平氏の落日を象徴しているような日没だった。この写真は、銅像めぐり「桃太郎」の中にあるので、ごらんいただきたい。

屋島の展望台からの眺め。真下に見える海が戦場になった。 平氏が船を隠した「船隠し」。奥に見えるのが屋島。屋根のように平らなので屋島と名付けられた。

扇の的を射るときに駒を止めたという「駒立岩」。このときは干潮で水がなかった。 屋島寺の境内に、源平合戦800年(1985年)のときに建立された石製の壁画。「扇の的」の部分だけを撮した。

 翌朝、屋島寺の宝物館(源平合戦ゆかりのもの)を見学して、屋島合戦の旅を終えた。来た道と同じルートで岡山に戻り、新幹線で新下関へ。日本史ウオーキングは、高校の同級生4人としているが、下関には同級生Fちゃんが住んでいる。彼女が12日の午後から13日にかけて車で案内してくれたので、壇ノ浦の旅が充実したものになった。

 いよいよ、平家一門滅亡の地・壇ノ浦の舞台に立つ。壇ノ浦の戦いが決着したのは1185年3月24日。西に落ちていく平氏を追って義経が周防灘に現れたのは21日。屋島での勝利から1ヶ月もかかっているのは、水軍の準備をしていたからだと言われる。22日、満珠島・千珠島(下関の城下町長府の高台から見える)に兵を集結。それを聞いた平氏は、拠点にしていた彦島(下関市の突端にある大きな島)を出た。

 満珠・千珠島や彦島は、ガイドブックの地図を見ているだけでは実感がなかったが、その場に立つと戦いの様子が想像できる。関門橋写真(下)の右側から進んできた平氏軍と、左側から進んできた源氏軍が、「早鞆の瀬戸」で戦いを繰り広げた。関門海峡で本州と九州の距離がもっとも近い海上である。

 本州側の下関には、壇ノ浦合戦の史跡がたくさんある。関門橋を見上げる位置にある「みもすそ川公園」には、義経の八艘飛びの像と、平知盛が錨を持って海に入ろうとする像が並んでいる。「今ぞ知る身もすそ川の御ながれ波の下にもみやこありとは」の二位尼の歌碑・安徳帝入水の碑・はては大河ドラマ「義経」(2005年)を演じたタッキーこと滝沢秀明らの手形もある。

 この公園の目の前の海で戦いが繰り広げられた。知盛が「見るべきほどのことは見つ」と言いながら入水した海。「波の下にも都のさぶろふぞ」と安徳天皇を抱いた二位尼が入水した海。建礼門院が髪の毛を捕まれて心ならずも引き上げられた海。平氏の赤旗や赤印が漂って真っ赤に見えたという海。

 穏やかな日とはいえ、潮流は写真にも写るほど早かった。最大の海の難所でなぜ戦いが繰り広げられたのか。海での戦いを得意にしていた平氏が、なぜいとも簡単に滅びたのか。わからないことはたくさんあるが、ここでの源氏の勝利が、江戸時代まで続く武士政権を生むことになった。

下関側から見た関門橋。この海が、壇ノ浦の戦いの舞台だった。 八艘飛びをしている義経像。

門司の和布刈公園第2展望台にある有田焼の壁画。安徳天皇と二位尼が入水する場面。 錨を持って入水する知盛像。

 みもすそ川公園から海岸沿いに下関駅方面に向かうと、赤間神宮がある。日清戦争後に講和条約を結んだ旅館や記念館も隣接している観光スポットだ。

 赤間神宮は、安徳天皇を祀っている。シンボルの水天門は、「波の下にも都はある」ことから竜宮城を思わせる作り。境内には、安徳天皇陵・壇ノ浦で亡くなった平家一門の七盛塚芳一堂がある。壇ノ浦古戦場にある史跡は、ほとんどが平家関連のもの。勝者である源義経に関しては、大河ドラマにあわせて最近作られた像があるだけだ。日本人は、滅びていく者に、より哀愁を感じるのだろう。

 芳一堂には、盲目の琵琶法師・耳なし芳一の像がある。ラフカディオハーン(小泉八雲)の怪談「耳なし芳一」は、赤間神宮と七盛塚が舞台。平家の亡霊に取り憑かれた芳一は、あるお屋敷で語っていると思いこんでいるが、実際には誰もいない七盛塚の前で、琵琶を弾きながら平家滅亡を語る。怪談話とわかっていても、ブルッと震えが来る。本物の琵琶の音色で、「耳なし芳一」を聞いてみたいものだ。

赤間神宮のシンボル、水天門。 平家一門の墓・七盛塚。 「芳一堂」にある耳なし芳一像。

 下関から門司までの関門トンネルには、歩道もある。私たちも歩いて、門司に渡った。15分もかからないほど近い。関門トンネルを出た所で、Fちゃんが待っていてくれたので、車で和布刈(めかり)公園の展望台に立った。火の山公園から、泊まった宿から、赤間神宮から・・と何度も飽きずに眺めた壇ノ浦も、この和布刈公園で当分は見納めだ。下関からの景観も、門司からの景観も甲乙つけがたい。

 第2展望台には、高さ3b、長さ44bの壇ノ浦合戦の壁画がある。有田焼のタイルに描かれた壁画は色鮮やかで、写真を何枚も撮った。平家滅亡の旅を締めくくるに相応しい見事な壁画だった。
(2009年5月27日 記)

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