日本史ウオーキング

 32. 前九年の役と後三年の役 (平安時代)

 平家が滅亡したところで平安時代のウオーキングを終えるつもりだったが、奥州藤原氏を触れないわけにはいかなくなった。というのは、源頼朝は、平家のみならず奥州藤原氏を滅ぼさなければ、源氏の再興と本格的な武士の世の確立は出来ないと考えていたからだ。

 中学の教科書には、「奥州藤原氏は京都風の町を建設した」「金色堂など東北地方にも高い仏教文化があった」程度の記述しかないが、最近は、奥州藤原氏は武士社会のさきがけだったとする学説もある。

 奥州藤原氏の栄華の前には、前九年の役・後三年の役という血なまぐさい戦いがあった。前九年と後三年を抜きにして平泉は語れない。ということで、前九年の役の舞台である盛岡と平泉を、2009年8月23日から25日にかけてKちゃんと2人で歩いてきた。

 前九年の役(1051年〜1062年)を知らない方がいるかもしれないが、東北で育った私には馴染みが深い。鎮守府胆沢城の役人から頭角をあらわした安倍氏は、衣川(平泉の北を流れる川)以北の奥6郡(岩手・志波・稗貫・和賀・江刺・胆沢)を支配していた。

 経済力を背景に力を増していた安倍氏は、衣川を越えて朝廷の管轄地域に進出し、朝貢にも応じないようになった。朝廷は源頼義を派遣して安倍氏を討とうとした。頼義・義家安倍頼時・貞任・藤原経清((下の系図の@ABの争いは、なかなか決着がつかなかった。しかし、出羽の豪族・清原氏が頼義側についたことで安倍氏は滅びた。実に10年にわたる戦いだった。NHKの大河ドラマ「炎立つ」前半のハイライトは、この前九年の役である。

博物館と岩手山 私が知っている今の岩手県は、失礼ながら決して豊かな県ではない。「なぜ平泉には金色堂を建てるほどの財力があったのか、なぜ安倍氏に朝廷を無視するほどの財力があったか」と漠然と思っていた。安倍氏の拠点があった盛岡に行けば、謎が解けるかもしれない。

 まず向かったのは、盛岡にある県立博物館(左)。中心地から離れていてバスの便も少ない。「市のはずれに作るなんて」などブツブツ言っていたが、岩手山が歓迎してくれたので、少しご機嫌になる。

 ところが、お目当ての前九年の役に関する史料や遺物はほとんどない。はるばる来た甲斐がないので、専門家から話を聞くことにした。学芸員のTさんは「前九年の史料を展示していないのは、物がないからなんです」と、残念そうに語る。

 「ところで、安倍氏はどうして財力があったのですか」。「蝦夷や沿海州など北方と交易をしていました。アザラシの皮・動物の皮・砂金・昆布・薬草・ワシの羽などは高い値で売れました。奥6郡は、駿馬の産地でもあったんです。一戸から九戸までの地名も馬に関係あります。朝廷は貢物さえ納めてくれれば、奥6郡を独立させておいてもいいと思っていたようです。でも、安倍氏が朝廷を無視するようになったので、兵を差し向けたわけです」。

厨川柵一帯
系図


 「現在の住所表示にもなっている安倍館町や厨川一帯(上地図)が、安倍氏の拠点の厨川柵(城塞)があったことは確かです。でも滅亡後に、他の勢力が入り込んだので、空ぼりや発掘された遺物は、安倍氏時代のものではなく、戦国時代のものです」と、がっかりするような事を学芸員のTさんは言う。

 でも安倍館跡に行ってみなくては話が始まらない。博物館から歩くには離れているし、バスは間隔が多くあてにならないので、タクシーでまわることにした。

 やっぱり行って良かった。前九年の役最後の決戦地・厨川は、北上川を背に自然の要塞になっていた。

 ここで、源頼義は安倍貞任や藤原経清を処刑した。藤原経清(つねきよ)は、奥州藤原氏初代の清衡(上の系図のC)の実父である。

 この時から約130年後の1189年に、源頼朝は藤原4代の泰衡(上系図のFを滅亡させるべく、厨川に1週間も滞在した。頼朝が平泉に攻め入った時には、泰衡は平泉から脱出していた。それを追って、今の盛岡まで来たのである。

 頼朝は、平氏の最後は弟の義経に任せておきながら、泰衡のことはしつこく追いかけている。それだけ奥州藤原氏の打倒を重要視していたことになる。奥州平泉の滅亡は半自立地域の解消を意味し、「日本国」はこの時に成立したとも言える。

 歴史の転換点にもなった厨川だが、その割には史跡は残っていない。でも、この地に立てたことだけで満足である。史跡の代わりに、銀河鉄道の「厨川駅」、安倍館町の表示、前九年一丁目の信号を撮ってきた。タクシーの運転手さんは実に親切で、「○○の標識がある所で停まって」という要望に、快くというより面白がって付き合ってくれた。

空ほり 厨川駅 前九年一丁目 安倍館町
安倍館の所にある「空ぼり」。戦国時代のもの。 厨川は、宮澤賢治の童話にちなんだ銀河鉄道の駅になっている。 前九年一丁目。もっともこの町名は昭和40年代に出来たという。 安倍館町。この町名はいつ出来たか聞きそびれたが、やはり新しいのではないだろうか。

 さて、安倍氏と藤原経清が滅んだだけでは、まだ奥州藤原氏にたどりつかない。初代の清衡が平泉に拠を構えるのは、もうひとつの戦い、後三年の役(1083年〜1087年)以後である。

 藤原秀郷の流れをくむ藤原経清は、親の代に関東から宮城県の亘理に移り「亘理権大夫」名乗っていた。貴族の位をもらっている朝廷側の人物だったが、安倍頼時の娘と結婚。前九年の役では朝廷と敵対した。

 経清が処刑されたときに、息子の清衡はまだ7歳。母が清原武貞(上系図D)に嫁したことで、清原清衡として30歳ぐらいまでを過ごした。安倍の敵だった清原氏に嫁ぐのは、今の感覚では考えられないが、「よくある話」ではあった。

後三年合戦絵巻 清原氏は、今の秋田県横手市に拠点を置いていた豪族。後三年の役は、清原氏内部の抗争にはじまり、後半は清衡と異父弟の家衡(上系図のEとの戦いになった。源義家は内紛に介入して、清衡側についた。

 左の「後三年合戦絵巻(左)-国立博物館蔵−」は、中学歴史資料集のコピー。馬上の源義家が、雁の列の乱れから敵軍が隠れていることを知る有名な話は、金沢柵包囲中のことである。金沢柵にいた家衡らは、ついに落城。清原氏の主流は滅んだ

 後三年の役で清衡が勝利したことが、奥州藤原氏のスタートになり、義家が名声を上げたことが、東国武士団と源氏の主従関係を強めることになった。内紛にすぎなかった後三年の役だが、この意味で大きな戦いだった。

 横手まで行けば、後三年の役の痕跡があるかもしれないが、そこまで足を延ばす余裕がなかった。これを書いている時にふと思いついて、「横手 後三年の役」と検索に入れてみたら、なんと「後三年の役金沢資料館」が横手にあることがわかった。平成3年に金沢柵があった地に建てたと、書いてある。

 盛岡と平泉の中間にあるJR北上で北上線に乗り換えれば、横手に着く。旅程を工夫すればなんとかなったはずだ。完全にリサーチ不足である。

 前九年の役の舞台・盛岡では、博物館の受付嬢でも、前九年の役の史実すら知らなかった。盛岡は他に見どころがたくさんあることもあるのだろうが、横手を見習ってほしいものだ。(2009年9月24日 記)

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