日本史ウオーキング

 33. 奥州藤原氏の100年−平泉− (平安時代)
 
 仙台で育った私にとって、平泉は遠足や遠来の客を案内するに格好の場所でもあった。いまさら平泉でもあるまいと思ったが、「源頼朝は平泉を征服してはじめて武士政権が確立すると考えていた」ことを最近知った。新たな発見があるかもしれない。2009年8月、盛岡の前九年役史跡見学後に、平泉に泊まることにした。

 32の前九年・後三年の役でもふれたように、奥州藤原氏初代の藤原清衡は、前九年と後三年両合戦の最後の勝者。戦いの勝者というだけでなく、母である安倍氏、実父である藤原氏、継父である清原氏のすべてを受け継いだ、まさに「北方の王者」だった。7歳から成人するまでは清原清衡として育ったが、清原氏滅亡後は、実父である藤原経清の藤原を名乗るようになった。藤原姓が、中央にも聞こえがいいからだ。

 
清衡が後三年の役で勝利をおさめたのは1087年。安倍氏から受け継いだ奥6郡と清原氏から受け継いだ仙北3郡を合わせ、今の秋田・岩手県の大半と青森県全域にわたる広大な地域を支配したことになる。その清衡が江刺から平泉に政庁を移したのは1100年頃。2代基衡・3代秀衡の全盛期を経て、4代泰衡は1189年に頼朝に滅ぼされた。1087年から1189年までの100年間が、奥州藤原氏の時代である。

平泉地図 平泉に行った理由は他にもある。以前は発掘されていなかった柳之御所遺跡が今は全国的に有名になり、高校の日本史教科書にも載っている。それをこの目で確かめたかった。

 柳之御所は、「吾妻鏡」にある奥州藤原氏の政庁「平泉館(ひらいずみのたち)」と、考えられている。

 1988(昭和63)年、バイパス工事のための事前発掘で、遺構・遺物が大量に出現。1997(平成9)年に国の史跡として保存されることになった。

 柳之御所(地図の@)が発掘されるまでの平泉の観光スポットは、中尊寺(地図のA)と毛越寺(地図のB)だけだった。都を遠く離れた地にも仏教文化が栄えたという扱いでしかなかったが、平泉館が具体的に姿を現したことで、都市としての平泉が明らかになった。

 この地図は柳之御所資料館でもらったパンフレットに、私が数字を加えた。

 盛岡から東北本線普通列車で平泉に着き、お目当ての柳之御所跡に向かった。無量光院(秀衡が建立した寺)跡や伽羅御所(吾妻鏡に秀衡の住居とある)跡に立ち止まりながらゆっくり歩き、20分ほどで資料館に着いた。

 資料館には、たくさんのかわらけ(素焼きの土器)、常滑陶器・中国産白磁四耳壺・中国景徳鎮産の青白磁碗・松鶴鏡・印章・通貨・漆塗りの道具・糸巻き・下駄・烏帽子などが展示してあった。

 これを見ると当時の人たちが、かわらけで酒を酌み交わす宴会がたびたび行われていたことや漆塗りや織物の工房があって豊かな生活を送っていたことが想像できる。撮影禁止ではなかったのに、写真を撮り忘れた。下の写真は資料館パンフレットのコピー。

かわらけ 青白磁 鏡 印章 政和通宝
かわらけ 青白磁碗 松鶴鏡 印章(磐前村印) 政和通宝

 そのほか大型建物跡・堀跡・塀跡・井戸跡・池跡を発掘したときの写真が、展示してあった。今でも発掘は続いているが、訪れたときはビニールシートで覆われていた。

 資料館から北上川が見えると言いたいところだが、高い堤防で遮られている。遺跡の中央を避けて北上川沿いに作られたバイパスのために、堤防を作らざるを得なかった。人工的な堤防とバイパスは、世界遺産に登録されるには、不利のような気がする。

 堤防に上ると、悠然と流れる北上川と束稲(たばしね)山が目の前にあった。柳之御所の人たちもこんな景色を見ていたにちがいない。束稲山については、秀衡を訪ねた西行法師が「ききもせず 束稲山のさくら花 吉野のほかにかかるべしとは」と詠んでいる。

柳之御所資料館 柳之御所発掘現場 北上川と束稲山
資料館からは、堤防とその上のバイパスに遮られて北上川が見えない。 資料館の隣の発掘中の遺跡。ビニールシートで覆われていた。 北上川と高舘橋と束稲山

 町内にある「武蔵坊」という旅館に泊まった翌朝、まず中尊寺を訪れた。中尊寺は慈覚大師が850年に開山した天台宗の寺。

 前九年と後三年の役を勝ち抜いた清衡は、前九年では実父を、後三年では妻子や親族を失うという悲惨な体験をしている。「これからは戦いのない世の中にしたい。平泉に現世浄土の世界を作りたい」という熱い思いで、まず1105年に多宝寺、1107年には二階大堂を造営している。中尊寺は、1117年に造営をはじめた「鎮護国家大伽藍一区」を指す寺号だったが、次第に多宝寺や二階大堂を含めた一帯を指すようになった。

金色堂内部 当時の建物で残っているのは金色堂だけである。頼朝が平泉を滅ぼしたときに全焼したと思われがちだが、そうではない。鎌倉時代には保護されて繁栄していたが、14世紀の大火でほとんどを失ってしまった。芭蕉が平泉を訪れた頃は「夏草やつわものどもの夢のあと」状態だった。

 金色堂(左はパンフレットのコピー)は、鎮護国家大伽藍一区の小さな阿弥陀堂にすぎなかった。

 でもこの小さな堂だけでも残ってくれてほんとうに良かった。堂全体が工芸品と言ってもいい。4本の柱・仏壇・長押にいたるまで螺鈿細工や透かし彫りの金具や蒔絵が施されている。日本の工芸品の技術は世界一だと言われるが、その世界一の工芸品をここで見ることができる。金色堂だけで3000もの国宝や重要文化財があるそうだ。

 堂の内外、床にいたるまで金箔で覆われている。マルコポーロが「東方見聞録」で、ジパング国王の宮殿は屋根も床もすべてが黄金作りと書いているのは、この金色堂のことではないかと言われる。

 中央の壇には清衡の遺体が納められている。下の壇には左から基衡・秀衡の遺体・泰衡の首が納められているという。もちろん見学者に遺体つまりミイラは見せていないが、私は仙台の藤崎デパートで3人のミイラを見たことがある。中学か高校の時かはっきりしないが、まだエジプトのミイラには縁が無い頃だったので、気味悪さ以上に好奇心が勝った。3代秀衡は、ミイラといえども堂々としていたことを覚えている。

 金色堂以外にも、国宝を展示している讃衡蔵(さんこうぞう)・中尊寺経を納めていた経蔵・弁慶堂・本堂・大池跡など見どころは多い。伊達家が作った江戸時代の能楽堂は今も使われている。松尾芭蕉の「五月雨の降り残してや光堂」の句碑や芭蕉の銅像もある。はじめて中尊寺を訪れる人は、有料ガイドを頼んだほうがいいかもしれない。境内は広く、みどころがたくさんあるからだ。

 金色堂の覆いは、鎌倉時代に作られたので、芭蕉が訪れた江戸時代には、直接五月雨が降り注ぐことはなかったはずだ。でも金色堂は、燦然と光をはなっていたに違いない。私がはじめて見た中学生のときも、この古い覆い堂だった。いま見るコンクリート製に変わったのは昭和38年。情緒がなくなったが、保護のためにはやむを得ない。

旧覆い堂 金色堂 能舞台
鎌倉時代に立てられた旧覆い堂 コンクリートの覆い堂の金色堂 能舞台

 中尊寺から毛越寺に向かう道すがら、平泉文化遺産センターがあった。世界遺産登録を目指して最近作ったのか、真新しい。しかも無料である。安倍氏から藤原氏への変遷パネルと、柳之御所からの出土品が展示してあった。

 受付にいた女性が、展示の地図を指さしながら「平泉は、みちのくの中央にあるんですよ。奥大道の北端・青森の外が浜が北緯41度。奥六道の南端・白河の関が37度。平泉は中間の39度にあります」と嬉しそうな口調で説明してくれた。言われてみればその通り。清衡がこれを知っていたとしたなら、たいしたものだ。ちなみに奥大道は、みちのくの幹線路で今の東北自動車道とほぼ同じ。平泉は、北上川と奥大道という川と道の2つの大動脈を持っていた。

 次は2代基衡が建立した毛越寺(もうつうじ)に向かった。上の地図を見てもらえば分かるが、奥大道を北上した人がまず目にするのは毛越寺。南の玄関口ともいえる。それに対し、奥大道を南下した人が目にするのは中尊寺。北の玄関口ともいえる。平泉に入ってきた人にとって、両寺のたたずまいは度肝を抜くものだったに違いない。

 「吾妻鏡」によれば、毛越寺には堂塔40・僧坊500もあった。でも当時の伽藍はなにひとつ残っていない。でも浄土庭園と伽藍の遺構がほぼ完全に保存されていたのが幸いした。国の特別史跡、特別名勝の指定を受けている。私が何度か訪れた頃はさびしい印象しかなかったが、今は浄土庭園もきれいになり、本堂・常行堂・開山堂も復元されている。礎石に基づいた復元模型も出来ている。

毛越寺復元図 毛越寺の遣水 舞鶴池
毛越寺の復元図。正面手前は南大門、池をはさんで金堂円隆寺。 平安時代の遺構では唯一の遣り水のせせらぎ。 観自在王院の舞鶴池。

 大池を1周している遊歩道を歩くと、南大門跡の12個の礎石をはじめ、金堂・講堂・法華堂跡の礎石があり、かつての広大な境内を偲ぶことができる。大池に流入する遣水(やりみず)のせせらぎ復元も風情がある。遣水の遺構は京都にもなく、平安時代のものでは唯一だという。

 東隣には、基衡の妻が建立した観自在王院も一部が復元されている。朝から歩き回っているので、ここの舞鶴池が清涼剤になった。毛越寺と観自在王院一帯は、平泉駅まで徒歩7分くらいと非常に近い。私たちは今日の宿泊地・気仙沼行きの列車に乗るために駅に向かった。
 
 最後に、平泉で自害したと伝えられる源義経に触れないわかにはいかない。一ノ谷・屋島・壇ノ浦で平家を滅亡させた義経を待っていたのは、過酷な運命だった。謀反の疑いをかけられ、兄頼朝との面会もかなわなず、追われる身になった。いわゆる「東下り」の逃避行。再び平泉に身を寄せることになった。

義経妻子の墓 秀衡は頼朝の勢力が奥州に及ぶことを懸念し、義経を中心に鎌倉に対抗しようとした。しかし秀衡は、義経到着9ヶ月後の1187年に病死。

 息子の泰衡は、「義経を中心にして平泉を守るように」の父の遺言を無視。義経を討てという頼朝の圧力に屈してしまった。泰衡は、義経派の弟を殺害後、義経を急襲。義経は、正妻と4歳の女の子を殺害したあとに自害したという。

 宿泊した「武蔵坊」の近くで、「義経妻子の墓」の矢印がある立て札を見つけた。正妻は河越(今の川越市)領主・河越重頼の娘だと、埼玉在住のKちゃんが教えてくれた。河越重頼の妻は、比企尼(頼朝の乳母で伊豆に流されていた時も物心両面で助けた)の次女。つまり義経の正妻は、頼朝の大恩人・比企尼の孫にあたる。頼朝は、弟や大恩人の孫を死に追いやったことになる。

 「埼玉の人なら墓参りでもするか」と探し回ったところ、金鶏山の麓の寂しい場所に2人の墓(上)があった。「正妻もいたのに静御前との別ればかりが有名になって・・」「なぜ義経の墓はないの」と、私は独り言。

弁慶の墓 墓や碑は作ってしまえば、そのうち名所になる。正しいかどうかの検証はされない。義経と弁慶の関係は芝居では有名だが、弁慶の実在は疑わしいそうだ。それでも平泉では弁慶は人気者。弁慶堂もあれば弁慶の墓(左)もある。宿やレストランの名前にも使われている。

 泰衡は、頼朝の命令通りに義経を滅ぼしたにもかかわらず、頼朝軍に追われる身になり、家来の裏切りで命を落とした。頼朝の本意が、義経征伐ではなく、奥州藤原氏征伐だったことが、これではっきりする。頼朝が、岩手に38日間も滞在していた事実が、なによりも物語っている。

 清衡・基衡・秀衡・泰衡と4代続いた奥州藤原氏は、こうして滅びた。同時に、安倍氏・清原氏・藤原氏と続いてきた東北の独立国家も消滅した。鎌倉時代の幕開けである。(2009年10月23日 記)
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