2代将軍源頼家や3代実朝には、父親の頼朝ほどの統率力はなく、御家人同士の争いを生むことになった。源氏の正統が途絶えたあとに迎えた摂関家の藤原氏将軍(4・5代)や親王将軍(6〜9代)も名前ばかりで、幕府の最高実力者は、執権の北条氏だった。 しかし、北条氏が盤石な基盤を固めたのは、頼朝以来の御家人を次々と滅ぼしていったからで、まさに血塗られた北条政権と言える。「滅ぼす」という言葉には凄惨な響きはないが、つまりは殺人である。殺すことに対する意識が今とは違うとはいえ、だまし討ちみたいな殺人の連続に驚いてしまう。 簡単に年表風にまとめてみた。御家人を滅ぼすたびに、北条氏の権力が増していったことがよく分かる。 1199年 頼朝が病死して頼家が将軍につく。北条時政ら13人の合議制がしかれる。 1200年 梶原景時の変(石橋山で頼朝を救った梶原景時は、頼朝の信任が厚かったが、滅ぼされた) 1203年 比企能員の乱(頼家の外戚として権力を握った比企能員は、北条氏追討を計画したが一族が殺された) 後ろ盾を失った頼家は修善寺に追放され、北条時政が政所別当につく。 1204年 頼家が修善寺の地で刺殺され、弟の実朝が将軍になる。 1205年 北条氏と対立した畠山重忠はだまし討ちにあい、鎌倉に向かう途中の二俣川(横浜)で敗死。 北条義時が政所別当になる。 1213年 和田合戦(北条氏と対立して挙兵した和田義盛は敗死) 。北条義時は侍所別当になる 1219年 源実朝が、大銀杏にかくれていた甥の公暁に殺された。公暁もその日に殺された。摂家将軍を迎える。 1247年 宝治合戦(三浦泰村が挙兵するが、北条時頼に滅ぼされ、法華堂で自害)。北条氏と対立していた御家人はすべて滅びた。 摂家将軍より身分の高い親王将軍を迎える。 殺された地には、墓や慰霊碑しか残っていないことが多く、気分的にも楽しくない。でも鎌倉時代を肌で感じるには、壮絶な権力争いの場を避けて通るわけにはいかないだろう。
頼家ゆかりの修善寺に行ったのは、2008年3月。東海道新幹線の三島駅から30分ほど伊豆箱根鉄道に乗ると、終点の修善寺駅に着く。町の中心を流れる川は桂川、赤い橋は渡月橋と名が付いてるように、小京都を思わせる温泉地だ。頼家関連では、幽閉されていた修禅寺・頼家の墓・家臣の十三士の墓が史跡になっている。 頼朝が将軍の時には、舅の北条時政が御家人の筆頭として権力を持っていた。しかし頼家が将軍になると、やはり舅の比企能員の力が強くなった。頼家は、比企氏と北条氏対立の犠牲になったと考えると分かりやすい。 修禅寺に幽閉された頼家は、北条義時の家来に討たれた。23歳。母親の実家・北条氏によって死に追いやられたことになる。実の母が実の息子を殺すことなどあり得ないと思うが、頼家は頼朝の乳母だった比企家で育てられたこともあり、愛情が薄かったのかもしれない。一族同士の殺し合いは珍しいことではなく、私情を差し挟む余地がない時代だったような気がする。
結局、頼家の舅・比企能員ら一族は、北条時政により滅ぼされた。その地に妙本寺が建っている。説明には、乱を免れた能員の末の子が、日蓮に帰依して建立したとある。この寺の一帯を比企谷と言う。鎌倉駅から徒歩10分と近く、広い境内は拝観自由なので、お勧めスポット。比企一族の墓もある。
比企一族を滅ぼした後も、北条氏と対立する御家人たちは残っている。頼朝に信任され「鎌倉武士の鑑」とも慕われていた武将畠山重忠もそのひとり。その重忠は「鎌倉に異変があるから直ちに参上せよ」という偽の手紙をもらい、鎌倉に駆けつける途中の二俣川で、北条義時の軍に襲われた。 二俣川は横浜市旭区に今も残る地名で、駅名にもなっている。数年前にその地を訪ねた。だまし討ちにあった畠山重忠の人気が高いためか、説明や石碑もいくつか建っていた。重忠の息子・重保は、鎌倉の由比ヶ浜で殺された。若宮大路の「一の鳥居」近くに慰霊塔が建っている。 初代の侍所別当をつとめた和田義盛の一族も、和田合戦で滅ぼされた。和田義盛がつとめていた侍所別当の地位を北条義時が得たことで、北条氏の権力は不動になった。 鎌倉駅を出た江ノ電が、最初に停まるのが「和田塚」である。駅を下りて由比ヶ浜の方へ向かう道の左側に、和田一族戦没地の碑が建っている。明治時代にこの辺りを発掘したら、おびただしい人骨が発見され、和田合戦の犠牲者だとわかった。
3代将軍の源実朝は歌人としても有名である。飾り物将軍の鬱々とした気持ちを表現するには歌しかないと、藤原定家に入門。「金槐和歌集(金は鎌倉、塊は右大臣の意味)」は高く評価されている。 鎌倉国宝館の入り口付近に、実朝の歌碑(左)が建っている。関東大震災で倒壊した二の鳥居に刻んである。木々に囲まれていて近づけないが、「山はさけ うみはあせなむ世なりとも 君にふた心わがあらめやも」の歌だと、説明板にあった。国宝館の前は何度も通っているが、目的なしで歩いていたので見過ごしていた。 その実朝が暗殺されたのは、1219年の1月。八幡宮での儀式を終えた実朝が石段を下りかけたときに、大銀杏に隠れていた公暁(頼家の子ども)に襲われたという。大銀杏殺人は江戸時代の作り話だと言われるが、それはともかく、公暁もこの日のうちに北条義時の家来に殺されている。実朝は28歳、公暁は20歳。この時点で源氏の正統は途絶えた。 今回のウオーキングは、古戦場めぐり・殺人現場訪問記になってしまった。読んだ方は気分が悪いかもしれないが、鎌倉散策のおりに、頭の片隅に留めておいてくだされば幸いだ。(2010年1月28日 記) 感想や間違いをお寄せ下さいね→ 日本史ウオーキング1へ 次(北条氏9代)へ ホームへ |