日本史ウオーキング

  37. 北条氏9代 (鎌倉時代)

 系図によっては北条氏の執権は16代まであるが、一般的には北条氏9代と言われる。その9代とは、時政→義時→泰時→経時→時頼→時宗→貞時→師時→高時を言う。つまり、北条氏本家の系統で執権をつとめた9代をさしている。ここでは、義時・泰時・時頼・時宗の4人に関する史跡を巡ってみようと思う。

 3代将軍源実朝が殺された時の執権は、2代北条義時だった。幕府の混乱につけこんだ形で、後鳥羽上皇ら三上皇は義時追討の宣旨を発した。これが承久の変である。朝廷側は大敗、後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐へ流された。承久の変に大勝したことで、義時の権力はさらに大きくなった。東国の武士政権に過ぎなかった鎌倉幕府は、これ以後、西国にも影響力を持つようになった。

 上皇達が流された隠岐と佐渡には、以前遊びに行ったことがある。両島とも、上皇の遺跡は観光スポットになっていた。その時のフィルム写真が、ここで役だった。

 承久の変に懲りた義時は、朝廷を監視するために、京都に南北の六波羅探題を置いた。六波羅探題址は、平家滅亡のウオーキングのときに訪れている。平氏六波羅第・鎌倉幕府六波羅探題址の石碑が、洛東中学の正門わきに建っていた。平氏政権の中枢だった場所に、鎌倉幕府の探題を置くことで、政権交代を顕示したのだと思う。

隠岐の島 佐渡島 六波羅探題跡
隠岐島の後鳥羽上皇火葬陵。台風のあとで木が倒れたままになっていた。 佐渡島の順徳上皇真野御陵。 光って見にくい写真だが、石標には「平氏六波羅第・鎌倉幕府探題址」と彫ってある。

 名執権として名高い3代泰時は、1225年に大倉から宇都宮辻子(うつのみやずし)に幕府を移した。源氏3代の幕府だった大倉から離れたかったこと、泰時独自の街作り構想を持っていたことからの移転だった。

 宇都宮辻子の幕府跡は、二の鳥居から北へ少し進んだ東側、鎌倉彫会館と教会の間を入った細い路地にある。そばに赤い宇都宮稲荷が建っているので分かりやすい。辻子は、大路と大路、大路と小路を結ぶ新しい道のこと。

 泰時は、武士のための法律・御成敗式目(貞永式目)51ヵ条を作ったことでも知られる。51ヵ条には、領地争いを裁くための基準以外に、道徳の基本も含まれている。

 現存している日本最古の港・和賀江島を築いたのも泰時だ。鎌倉時代は、今の材木座海岸を「和賀江津」と呼んでいたが、難破する船が多っかったので、海岸から170bぐらいの沖に防波堤と波止場を兼ねた港を作った。唐船の着岸も可能になり、鎌倉が大商業地として発展するもとにもなった。

 和賀江島を近くから見ていないので、材木座海岸まで行ってみた。干潮の時しか見えないと聞き、その時間を調べていったおかげで、島ごときものが沖合に見えた。サーファー達が「5月頃には、歩いて和賀江島まで渡れますよ」と教えてくれた。

 土木工事に力を入れたのも泰時である。六浦への通路として開かれたのが朝比奈の切り通し。東京湾の六浦港は重要な地だったので、この切り通しの果たした役割は大きかった。鎌倉の7つの切り通しを全部歩いたことがあるが、古道の面影を残している朝比奈切り通しは、特に印象に残っている。

巨福呂洞門 巨福呂坂の切り通しも作った。北鎌倉から鶴岡八幡宮まで歩くと、途中に円覚寺・浄智寺・建長寺など鎌倉五山のうちの三山はじめ、たくさんの寺がある。もし巨福呂坂の切り通しを作らなければ、八幡宮より西の部分は開けなかったことがよく分かる。

 大寺が並ぶ道筋に、巨福呂坂洞門(左)というドーム状のトンネルがある。このトンネルを巨福呂坂の切り通しだと思っている人が多いが、これは当時の切り通しではない。

 国の史跡になっている本当の巨福呂坂切り通しは、八幡宮の西から小道を入った所にあるが、途中で切断されているうえに案内板も消滅している。国史跡と唱っている割りには、あまりにもお粗末だ。

 現状がこうであれ、泰時が巨福呂坂と朝比奈に切り通しを作ったことで、東西を結ぶ大動脈ができたことになる。

宇都宮稲荷神社 宇都宮辻子幕府 和賀江島
宇都宮稲荷神社のそばに幕府旧跡の石碑がある。 宇都宮辻子幕府あとの石碑 上の方の黒い島影が和賀江島。今はサーフィンが集う海岸。
和賀江島石碑 朝比奈の切り通し 巨福呂坂の切り通し
和賀江嶋の石碑と案内板が建っている。 朝比奈の切り通し切り通しの面影をよく残している。 巨福呂坂切り通し。途中で道が切れている。

 5代時頼は、1274年の宝治合戦で三浦泰村を討ち、三浦一族を滅ぼしたことで知られる。三浦一族ゆかりの寺は、三浦半島の衣笠城址付近にたくさんある。5年ぐらい前に、日本史ウオーキングとは別に歩いたことがあるので写真が残っていた。

 有力御家人が次々と滅びていくなかで、三浦氏だけは幕府の重鎮として残っていた。三浦氏の声望を妬んだ時頼の外戚・安達景盛は、時頼の協力を得て三浦氏を滅ぼした。これにより執権北条氏の権力は増し、今までは摂家からしか将軍を迎えられなかったが、親王から将軍を迎えることが出来た。

 鎌倉五山の1位・建長寺を建立したのも時頼である。しかし時頼はわずか30歳で執権職をゆずり、最明寺に出家してしまう。謡曲「鉢の木」にあるように、出家後の時頼は、最明寺入道として、諸国を漫遊した。

 亡くなったのも37歳の若さだった。伊豆長岡(伊豆の国市)の最明寺に時頼の墓がある。この寺は夫の祖先の菩提寺なので、私は何度も行ったことがある。そのたびに「有名な時頼の墓がなぜここにあるんだろう」と不思議だったが、北条氏の出身地がこの辺りだったことを思えば、ごく自然なことだった。

 時頼の墓は、鎌倉の明月院にもある。アジサイ寺として名高い明月院は、時頼が建立した最明寺の塔頭のひとつ。最明寺は今の鎌倉にはなく、長岡にあるだけだ。

満昌寺 長岡の時頼の墓 明月院の時頼の墓
三浦義明の墓がある満昌寺。 伊豆長岡の最明寺にある時頼の墓 鎌倉の明月院にある時頼の墓

 6代時宗は、モンゴル軍の2度に渡る襲来・元寇を退けたことで有名である。モンゴル軍と日本が戦ったのは、鎌倉から遠く離れた博多。鎌倉には元寇の史跡はないと言っていい。でも鎌倉に隣接する藤沢市片瀬の常立寺(じょうりゅうじ)には、モゴル塚がある。

 降伏勧告状を持って幕府に遣わされた杜世忠ら5人の国使は、時宗の命令で処刑された。その彼らを葬っているのがモンゴル塚である。朝青龍・白鵬などモンゴル出身の力士が参拝したこともあるそうだ。モンゴルでは英雄を意味する青い布が巻いてある。この寺は梅で有名なので、2年前の梅の季節に訪れた。

 鎌倉五山2位の円覚寺を建立したのも時宗である。円覚寺の境内は非常に広いが、山門からだいぶ奥まったところに開基廟があり、時宗が祀られている。

モンゴル塚 常立寺の梅 円覚寺の開基廟
処刑されたモンゴル国使の塚は常立寺にある。 常立寺は梅で有名。紅白のしだれ梅が見事だった。 円覚寺の開基廟。時宗が祀られている。

                                                  (2010年3月23日 記)
感想や間違いをお寄せ下さいね→
日本史ウオーキング1へ

次(新しい仏教)へ
ホームへ