鎌倉時代には、新しい仏教がたくさん登場した。これまでの仏教は主に貴族階級のものだったが、新仏教は庶民や武士などにも広まっていった。新しく登場した仏教は、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、日蓮の法華宗。 比叡山の延暦寺を訪れたときに知ったのだが、法然・親鸞・栄西・道元・日蓮はみな天台宗を学んでいる。新仏教とはいえ、もともとは旧仏教から入ったのだ。ピカソが最初から抽象画を描いたのではないと同じように、新仏教も仏教の基礎は旧仏教だったことに、今頃になって気づいた。救いを得る方法が、念仏であったり、座禅であったり、お題目を唱えることだったりで宗派が分かれた。 鎌倉幕府が保護をして武士階級にひろめていったのは臨済宗である。鎌倉五山は、鎌倉時代滅亡後の1386年に、足利義満によって順位を決められた臨済宗の5つの寺。この5つを順次まわってみた。義満は南宋の制度にならって、京都五山と鎌倉五山を決めた。 1位の建長寺は北条時頼が宋から蘭渓道隆を招いて1253年に建立。 2位の円覚寺は北条時宗が無学祖元を招いて1282年に建立。 3位の寿福寺は北条政子が栄西を招いて義朝ゆかりの地に1200年に建立。 4位の浄智寺は北条時頼の孫・師時が1281年に建立。 5位の浄妙寺は1188年に足利義兼が建立。尊氏の父貞氏が中興した。 五山のなかで1位と2位は、観光客が押し寄せている大寺で人気スポットだ。3位と4位も鎌倉が大好きな人なら知っている。でも5位の浄妙寺となるとどうだろう。知っている人は少ないような気がする。五山を決めたのが鎌倉幕府ではなく、足利義満なのを知って納得した。祖先ゆかりの寺を五山のひとつにしたかったのだろう。浄妙寺以外は北条氏が建立している。
日蓮に関する史跡や寺は、小町大路から名越えの谷周辺に、たくさん残っている。「南無妙法蓮華経」のお題目をとなえれば、国家も人々も救われると説いた辻説法跡は小町大路沿いにある。他の宗派を攻撃したり幕府を非難したので、幕府は日蓮をたびたび迫害した。にもかかわらず日蓮宗は支持され広まった。 「立正安国論」にちなむ安国論寺は、安房から鎌倉に出てきた1253年から20年間拠点にしたところ。法華経を読誦した富士見台や、「立正安国論」を書いた洞窟が残っている。 この周辺には、長勝寺(松葉ガ谷焼き討ちがあったとされる所に建つ)・妙法寺(護良親王の菩提を弔うために息子の日叡上人が建立)・妙本寺(比企一族が滅亡後に、比企能員の子が建立)・常栄寺(龍口刑場に連れて行かれる日蓮に、この寺の尼がぼた餅をふるまったために法難をまぬがれた。ぼた餅寺とも言われる)・本覚寺(弟子の日朝上人が日蓮の遺骨を身延山から分骨したことから東身延とも言われる)など日蓮ゆかりの寺がたくさんある。 江ノ電の「江ノ島駅」近くに建つ龍口寺は、龍口刑場あとに建っている。処刑されそうになった日蓮が難を逃れた場所である。
鎌倉を舞台にした新仏教をとりあげたが、鎌倉の大仏で有名な高徳院や、長谷観音の長谷寺は浄土宗の寺。光明寺は、関東浄土宗の総本山で家康が決めた学問所にもなっていた。(2010年8月9日 記) 感想や間違いをお寄せ下さいね→ 日本史ウオーキング1へ 次(鎌倉時代の文化)へ ホームへ |