鎌倉時代は、平安時代の貴族文化を引き継ぎながら、武士や庶民の素朴で力強い文化も育っていった。和歌では西行の「山家集」・藤原定家などの「新古今和歌集」・源実朝の「金槐和歌集」など。 随筆では鴨長明の「方丈記」・兼好法師の「徒然草」。物語では「平家物語」・「宇治拾遺物語」。「東関紀行」・阿仏尼の「十六夜日記」など京と鎌倉を行き来する紀行文も書かれた。 もともとは各時代を代表する史跡を1ヵ所を歩こうと始まった日本史ウオーキングだが、だんだん欲が出てきて、文化に関連した場所も歩くようになった。もちろん総てを歩くわけにはいかない。 鶴岡八幡宮で殺された3代将軍の源実朝は、鬱々とした気持ちを和歌で紛らわしていたようだ。八幡宮の近くにある鎌倉国宝館の入り口に、実朝の歌碑が建っている。木々に囲まれて読めない状態だが、説明を読んでかろうじてわかった。実朝の歌集金槐和歌集にある「山はさけ うみはあせなむ世なりとも 君にふた心わがあらめやも」が、関東大震災で倒壊した二の鳥居に彫ってある。 鎌倉駅から北鎌倉駅に向かう線路沿いに浄光明寺がある。北条時頼・長時が創建した北条氏の氏寺だが、裏に冷泉為相(れいぜいためすけ)の墓がある。為相は藤原定家の孫で、和歌名門冷泉家の始祖でもある。「十六夜日記」を書いた阿仏尼は実の母。
横浜市金沢区にある金沢文庫は、北条実時が和漢の本を集めた図書館。この一帯は、隣接する称名寺の庭園も整備され市民の森になっているので、何度か行ったことがある。この項を書くにあたり再度行ってみた。京急「金沢文庫駅から歩いて12分ぐらい。 今でこそここは横浜市に属しているが、以前は六浦・小坪・山内・稲村ヶ崎が鎌倉の4隅だった。文庫がある六浦は、重要な港でもあり、金沢街道が通っていた。 実時亡きあと3代にわたって集められた書籍は、膨大なものになった。北条氏滅亡後は北条氏の氏寺である称名寺が保管したが、徳川家康などに持ち出され称名寺も荒れ果ててしまった。 昭和5年に県立金沢文庫として再興。今は、神奈川県に関する絵画や史料を蒐集している。特に兼好法師が若い頃にここを訪れたことにちなみ、「徒然草」関係の資料が多いそうだ。
「徒然草」を書いた兼好法師は、神道界の名門・卜部氏の家柄に生まれた。以前は吉田兼好と習ったが、正しくは卜部兼好。今の教科書では吉田兼好を使っていない。卜部氏が吉田を名乗るのは室町時代になってからで、同族の兼倶が室町時代に吉田神道を興した以後のことである。 とはいうものの、少しでも繋がりのある地を求めて、吉田神道の地・吉田神社に行ってきた。京都大学のことを吉田山とも言うように、京都大学のキャンパスに隣接する小高い丘・吉田山の中腹に建っている。 兼好法師が住んでいた庵あとが、仁和寺の近くにあるはずだ。地図を見るのが苦手は私は、聞く方が早いのですぐ聞いてみる。でも誰もわからない。5人目でやっと「あそこじゃないか」と言ってくれる人がいてたどり着いた。このように地元の人も知らない非公開の寺。門はひっそり閉まっていたが「兼好法師旧跡 長泉寺」の石碑は立派だった。随筆に出てくる双岡が見えたので、探し回った甲斐があった。
(2010年8月19日 記) 感想や間違いをお寄せ下さいね→ 日本史ウオーキング1へ 次(鎌倉幕府の滅亡)へ ホームへ |