日本史ウオーキング

 40. 鎌倉幕府の滅亡(鎌倉時代)

 後醍醐天皇の2回にわたる倒幕計画(正中の変・元弘の変)は失敗に終わったが、それがきっかけで北条氏に反発する御家人達が立ち上がった。ついに鎌倉幕府は1333年に滅亡した。

 鎌倉に残る滅亡関連の史跡を回ってみた。鎌倉幕府を倒した最大の功労者はが足利尊氏と言わるが、鎌倉には尊氏に関する史跡はほとんどない。活躍の舞台が鎌倉ではないからだろう。

 元弘の変で隠岐の島に流されていた後醍醐天皇が島を脱出。天皇軍を討つために出陣した足利高氏(北条高時の1字をもらい高氏)は、途中で天皇側につくことを決意。北条氏に反旗を翻し、京都における幕府の拠点・六波羅探題を滅ぼした。後醍醐天皇側についた後に、天皇の諱の1字をもらって尊氏と改名。

 足利尊氏が呼びかけたことで、東国の武士達は北条氏打倒のために立ち上がった。上野国新田荘(今の群馬県太田市)に拠点を持つ新田義貞も、1333年5月に挙兵。新田荘から鎌倉に向かう途中の分倍河原(府中市)や関戸河原(多摩市)の戦いで、北条氏に勝利した。

 分倍河原はJR南武線と京王線の乗り換え駅だが、内部でつながっていないので駅前のロータリー広場を通る。立派な銅像があるので近寄ってみたら新田義貞だ。説明を読んで、新田軍と北条軍の戦いがあったことを知った。

 鎌倉入りした新田義貞が稲村ヶ崎の海を渡ったことを、私は歌で知っている。「♪七里ヶ浜の磯づたい 稲村ヶ崎 名将の 剣投せじ 古戦場♪」。明治43(1910)年の文部省唱歌だという。戦後に教育を受けた私は、この唱歌を習っていないが、なぜかメロディも歌詞も口から出る。

 義貞が潮が引くことを念じて剣を投げると、潮が引き干潟になった。この奇襲作戦が成功して極楽寺口を攻め落とすことができたそうだ。稲村ヶ崎に行ってみれば何か発見があるかもしれないと、出向いてみた。江ノ電「稲村ヶ崎駅」から徒歩5分にある海岸には、石碑が建っていた。訪れたときには満ち潮だったのか、大軍が渡れるような海ではなかった。

稲村ヶ崎 稲村ヶ崎石碑
分倍河原駅前に立つ新田義貞像 新田義貞の軍が越えたという稲村ヶ崎。 剣の伝説も書いてある石碑。

 ついに力がつきた北条高時はじめ一族870余人が東勝寺で自刃。新田義貞の挙兵から1ヶ月にもならない1333年5月22日のことだった。

 鶴岡八幡宮三の鳥居を右に行った突き当たりに宝戒寺がある。白い萩が咲く寺で有名だが、北条義時以来代々の執権の屋敷があったところだ。滅亡後の1335年に、足利尊氏が高時らの慰霊のために建立した。滅ぼした後に慰霊の寺を建てる例を、これまでのウオーキングでいくつも見てきた。これが日本人のメンタリティなのかもしれない。

 宝戒寺から東に10分ほど歩くと、東勝寺跡がある。なにもない原っぱみたいな所だが、鎌倉時代滅亡の地だから、残しておくに越したことはない。東勝寺の脇にあるやぐらは「腹切りやぐら」と言われる。このあたりは、八幡宮周辺の喧噪がうそのように静かなところで、北条一族が自刃した場所にふさわしい。

北条氏の邸あとに経つ宝戒寺 東勝寺跡 腹切り
執権北条氏の屋敷があった宝戒寺。 一族が自刃した東勝寺。 腹切りやぐら。

 新田義貞の史跡もろくに残っていないし、滅びの地・東勝寺付近はまったく整備されていない。それに比べ、後醍醐天皇の息子・護良親王に関する史跡の土牢や彼を祀る鎌倉宮は、仰々しい。護良親王は「もりながしんのう」と習ったが、今の教科書には「もりよししんのう」となっている。「もりよし」と呼ぶ史料が見つかったからだと言う。でも鎌倉宮や宮内省では、「もりなが」を使っている。

 後醍醐天皇の息子・護良親王は僧籍にあったが、元弘の変のときに還俗して参戦。幕府軍と戦い続けた。しかし、建武の新政では、父や尊氏に疎んじられ、東光寺の土牢に幽閉されてしまう。

 鎌倉宮の裏には、土牢が残っていて「建武元年11月より翌2年7月まで約9ヶ月ここに御幽居し給う」という説明板もある。しかし牢は復元したとあるから、本当に土牢に幽閉されたのかどうか疑わしい。いずれにしても1335年に殺された。倒幕に功があったのに父や尊氏に疎まれた悲劇は、義経に通じるものがある。この土牢は、悲劇を盛りあげるにはぴったりの舞台だと思う。

鎌倉宮 護良親王の土牢
鎌倉宮の境内には大木がたくさんある。全国から集められたそうだ。 護良親王が幽閉されたとされる土牢。 境内には、大塔宮御聖所の石碑もある。

 鎌倉宮は、「建武の新政」実現に尽くした護良親王をたたえるために、明治2年に作った神社。新田義貞の稲村ヶ崎越えの歌のタイトルは「鎌倉」で、歌詞は8番まである。かまくらガイドのような歌だが、1番は稲村ヶ崎、6番は鎌倉宮だ。「♪鎌倉宮に もうでては 尽きせぬ親王の御恨みに 非情の涙 わきぬべし♪」は、作られた当時の世相を反映している。どう考えても今の鎌倉の人気スポットではない。

 こういう史実を知るにつけ、明治政府が皇国史観を国民にうえつける巧みさに驚いてしまう。天皇中心の新政府が出来てすぐに、立派な宮を造営させるだけの統率力があったのだ。明治初年に造営された神社は、鎌倉宮ばかりではない。

 天皇に忠義であったかどうか、忠臣か逆臣かで歴史上の人物評価をする。こうした皇国史観の良し悪しをここで論じるつもりはないが、今の日本人にも多大な影響を及ぼしている皇国史観が誰の考えによるものか、立案者を知りたいところである。(2010年9月23日 記)

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