日本史ウオーキング

 41. 後醍醐天皇の政治 (室町時代)

 私が習った日本史の時代順は、鎌倉→建武の中興→南北朝と続いていた。今の教科書に数冊あたってみると、鎌倉時代の次は室町時代であって、その枠の中に南北朝時代と戦国時代が含まれている。

 戦前には重要事項だった後醍醐天皇による建武の中興は、今の教科書では室町時代の最初に軽くふれられているだけだ。

葛原岡神社 後醍醐天皇による倒幕計画・正中の変(1324年)と元弘の変(1331年)は、2度とも失敗に終わった。でも、これがきっかけで北条氏に反発する御家人が立ち上がり、最終的に鎌倉幕府は滅びた。

 鎌倉の源氏山公園にある葛原岡神社(左)は、正中・元弘の変に関わった日野俊基を祀っている。少し離れた所に墓もある。源氏山公園は北鎌倉から長谷の大仏に向かうハイキングコースにもなっていて、休日には大勢が集う。

 日野俊基は鎌倉幕府に捕らえられ、元弘元年(1331)年6月3日にこの地で処刑された。辞世の句は「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん」。

 この神社の創建は1887(明治20)年。皇国史観の時代に、後醍醐天皇の倒幕を支えた人物として評価された。今も遺跡保存会が活動している。

楠木正成銅像 忠臣・楠木正成(左)の名前は、戦後教育を受けた私もよく耳にしている。楠木正成は、後醍醐天皇の倒幕の動きに呼応して赤坂城で挙兵。彼に続いて足利尊氏や新田義貞も立ち上がった。建武の新政で要職につくも、湊川(神戸)の戦いで足利軍に敗れ、建武3(1336)年に自害した。

 楠木正成も皇国史観の恩恵を受けた人物だ。明治以降は大楠公と呼ばれ、明治13(1880)年に正1位を贈られている。

 楠木正成の銅像が皇居外苑にあることは知っていたが、場所もおぼろげだし、しげしげと見ることもなかった。

 後醍醐天皇を書くからには、楠木正成が挙兵した大阪府河内郡の千早赤坂村を歩きたい思っていたが、関東に住む私には不便な村だ。せめて銅像だけでも見たいと、皇居外苑に行ってきた。広い外苑にはそこそこの人がいたが、この銅像の前で記念写真を撮っている人は誰もいない。戦後65年ともなると、忠臣・楠木正成の名を知っている人が少ないのかもしれない。

隠岐の島の黒木御所 元弘の変に失敗した後醍醐天皇が京都から逃亡するや、幕府は持明院党の光厳天皇を即位させた。捕虜になった後醍醐天皇は、1332年に隠岐島に流される。

 隠岐島での生活は長くはなかったが、黒木御所(左)として史跡になっている。天皇の身分が剥奪されいる時の住まいを「御所」と呼ぶのは妙な気がするが、「太平記」には黒木御所の名がある。隠岐島に行った時には、日本史ウオーキングの構想すらなかったが、そのときに撮った写真が役に立った。

 側には「建武の中興発祥の地」の石碑も立っていた。建武の政治はここで行われたわけではないから、この石碑にも、いちゃもんをつけたくなる。

 後醍醐天皇は1333年に隠岐島を脱出し、伯耆の国の船上山で再び倒幕の兵を挙げた。天皇を討つために差し向けられたのが足利尊氏である。よく知られているように、尊氏は幕府を裏切って天皇方に寝返った。後醍醐天皇は勝利、鎌倉幕府は滅亡する。

 京都に帰還した後醍醐天皇は、翌1334年正月に、年号を建武に改名。その政治を建武の中興と言う。「中興」の言葉は皇国史観に基づいているので、今は建武の新政とか単に建武の政治と呼んでいる。

 天皇中心の政治に戻そうとした建武の政治は、倒幕に参加した武士達に受け入れられるはずもなく、1335年に足利尊氏は、新政府に反旗をひるがえした。尊氏は光明天皇を即位させ、建武の政治は、わずか2年半で終わった。

 この段階で自分の政治生命を見極めてもいいような気がするが、後醍醐天皇のすごいところは、まだ懲りない。11月には光明天皇に三種の神器を渡すが、12月に吉野に逃亡。光明天皇に渡した神器は偽物だといい、自分こそが正統な天皇だと宣言する。吉野朝廷・南朝のはじまりだ。

 京都の北朝と吉野の南朝が対立。ひとつの国に2つの朝廷がある南北朝時代が始まった。北朝と南朝のそれぞれに武士達が加担、足利家の内紛も重なって、動乱は半世紀以上も続いた。足利義満が、勢力の衰えた南朝を吸収して、1392年にようやく南北朝は合一した。

 吉野は千本桜の名所として名高いが、たくさんの歴史が秘められている所でもある。「歌書よりも軍書に悲し吉野山」と詠われているように、どちらかというと悲しい歴史が多い。

 吉野には40年ぐらい前に泊まったことがあり、おぼろげには覚えているが、おぼろげななまま日本史ウオーキングを書くわけにはいかない。いつもの仲間の都合がつかないので、夫と2人で訪ねた。新横浜から新幹線で京都、京都から近鉄線で吉野。乗り換えを含め4時間以上かかったが、奈良県のど真ん中の山中にしては近い。

 吉野町観光協会を通して頼んだガイドのSさんが、待ち合わせのY旅館で待っていてくれた。1時から5時までの長時間、吉野のスポットを案内してくれた。お嬢さんやお孫さんが私と同じ横浜に住んでいることもあって話がはずみ、楽しいひとときを過ごした。吉野町に住んでいるので、知り合いから声がかかる。一緒に歩いている私まで地元民になったかのように、錯覚してしまう。

後醍醐天皇最期の地 吉水神社 後醍醐天皇玉座
後醍醐天皇最期の地 吉水神社入り口 後醍醐天皇玉座がある書院

 国宝・蔵王堂の拝殿に向かって左下方に、八角形の妙法殿が建っている。ここは1339年に後醍醐天皇が亡くなった場所で、南朝4代の天皇の皇居だった。吉野朝宮址の碑がここにあることを、家に帰ってからパンフレットで見た。当時のよすがは、何も残ってないようだ。

 蔵王堂から少し歩くと吉水神社に着く。入り口には「南朝本拠4帝御所」と書いてある。もとは吉水院という寺だったが、明治初期に後醍醐天皇や楠木正成を祀る神社に変わった。

 後醍醐天皇が吉野に逃げたのは、強大な勢力を持つ僧兵を頼ったからだ。吉水院の住職も天皇を篤くもてなし、いっときは行宮だった。「花にねて よしや吉野の吉水の 枕の下に石走る音」の歌をここで詠んでいる。

 後醍醐天皇が御所にしていたとしても、いつまでも仮住まいのはずがない。4帝御所はおかしいような気がするが、神社が名乗っていてそれで観光客が集まるなら、私がとやかく言うことでもない。  

 書院には「後醍醐天皇玉座」や「義経潜居の間」が保存されている。「弁慶思索の間」もあった。兄頼朝に追われた義経を、どうやって守ろうかと思索していた間だという。ちょっと笑える話。

 豊臣秀吉に関する史跡もある。この寺に7泊もして花見の宴を開いた。1594年というから秀吉絶頂期。さぞかし賑やかだったろう。所蔵文化物も多い。吉水神社は、吉野を訪れたならば「行くきゃない」スポットである。

 吉水神社から30分ほど山道を登っていくと、如意輪寺だ。1336年に後醍醐天皇が勅願寺にした。この寺の入り口には「楠木正行公遺跡」と書いてある。正成の息子・正行が、大阪四条畷の戦いに出陣する前に矢じりで扉に記した辞世の歌も残っている。

 裏庭には「父子の別れ」の石像もあった。「正成涙をうち払い わが子正行呼び寄せて 父は兵庫におもむかん 彼方の浦にて討ち死にせん 汝はここまで来つれども とくとく帰れ故郷へ」の歌がそえてあった。「桜井の別れ」は、戦前はよく歌われたらしい。桜井は大阪府島本町にあるというから、ここで別れたのではない。

 如意輪寺の裏山に、後醍醐天皇の陵がある。いずれは京都に戻ろうとした後醍醐天皇だが、願いはかなわず52歳で亡くなった。京都に向けて陵を作るようにの遺言通り、北を向いている。円墳だとガイドのSさんに説明されたが、いずれにしてもどの御陵も、全体像は見えない。こんもりしているだけだ。天皇陵はこれまでのウオーキングでたくさん見たが、こんな静かな環境にあるのは珍しい。

如意輪寺 父子の別れ 後醍醐天皇陵
如意輪寺入り口 楠木正成・正行父子の別れ 後醍醐天皇陵

 桜の時期ではない吉野は実に静かだった。目的である史跡めぐり以外に、蔵王堂での朝の勤行に参加するなど、修験道の場として発展してきた吉野の一端を知ることができた。Sさんのていねいなガイド、Y旅館の暖かいおもてなしと美味しい料理も忘れられない。(2011年4月23日 記)

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