日本史ウオーキング

 42. 足利尊氏と鎌倉府 (室町時代)
 
 「戦前に歴史教育を受けなくてよかったなあ」と思うことがたびたびある。逆臣か忠臣かという見方でしかとらえない例が、余りにも多い。典型的なのが、前項でふれた忠臣・楠木正成と今回の主人公である逆臣・足利尊氏だ。

 昭和9(1934)年、斎藤内閣の中島商工大臣は、「足利尊氏は人間的に優れた人物だ」と雑誌「現代」に書いたばかりに、大臣を辞職せねばならなかった。この年は、建武の中興(1334年)から600年。軍人・神職・一部の歴史家が600年記念事業の準備をしている矢先だった。皇国史観を国民に植え付けようとやっきになっていた軍人達にとって、後醍醐天皇を討った足利尊氏が優れた人物では困る。逆賊でなければならない。

 戦後は一転して肯定的に評価されている。でも、戦後に教育を受けた私でも、「逆臣」という言葉は何度も聞いている。「尊氏は北条高時と後醍醐天皇の2人に叛いた大悪人」という話が、耳にこびりついている。

 尊氏は、主君の北条高時の高の字をもらって「高氏」と名乗っていた。幕府を滅ぼした後は、後醍醐天皇の諱・尊治の字をもらって「尊氏」に改名。「たか」に使われた2種の字の由来は、興味深い。

 尊氏が後醍醐天皇側についたのは、まったくの裏切りでもない。足利家は北条氏の近親でもあったが、八条院領足利庄(のちに後醍醐天皇がこの領地を受け継いだ)の地頭でもあった。鎌倉の御家人でもあり、天皇領の地頭でもあった。どちらにつこうかと、悩んだに違いない。いずれにしても、結果的には高時とも後醍醐天皇とも決別する。

足利尊氏邸あと 室町時代を少しでも肌で知りたい思いがあり、2009年11月に仲間4人と京都に行ってきた。平安時代の京都を探すのが大変だった以上に、室町時代の京都を探すのは難しかった。史跡はほとんどない。

 細い路地にある石碑など、土地の人すら知らないことが多い。単なる石碑や墓を探している私たちは、他人様がみたら滑稽だろうけれど、それなりに楽しかった。

 実質的には、後醍醐天皇が吉野に逃亡した1336年から尊氏の政権は始まっているが、室町幕府発足は、征夷大将軍に任じられた延元3(1338)年である。

 壮麗な「花の御所」が作られるのは義満の時で、尊氏が政務をとったのは足利尊氏邸である。室町幕府発祥の地とも言える邸は、南北250b、東西120bと広大だったが、今は見る影もない。

 御池通りから少し入った所に、かろうじて石碑(左)が立っていた。住所は中京区高倉通御池上ル東側。保健事業協同組合のビルの一画にある。

 尊氏が1358年に54歳で亡くなったあと、邸は足利家を菩提するための等持寺になった。「尊氏は3つの寺の建立を願っていたが実現しなかった。このため寺の字を使った寺名にした」と、説明板に書いてある。言われてみると、等にも持にも寺の字を使っている。

 この等持寺は応仁の乱後に廃れてしまい、別院の等持院に合併された。等持院は、北区の衣笠山の南麓、立命館大学のそばに現存している。現存と言っても、江戸末期の再建だ。

 訪れたときは紅葉が盛り。等持院の庭や背後の衣笠山の錦は見事だった。尊氏の墓・夢窓疎石作の庭園・茶室・三代将軍の木像が安置されている霊光殿など、尊氏に関する見どころは多い。尊氏・義詮・義満の3代の木像は、幕末に三条河原でさらし首にされたという。もちろん尊王攘夷派の仕業だ。

尊氏の墓 茶室 等持院境内

等持院にある尊氏の墓

等寺院の茶室

紅葉がきれいだった等持院境内


 新政権を始めた尊氏は、弟の直義に政治をまかせ、自分は武士の棟梁として君臨した。この両頭政治は後の歴史家も評価はしているが、二元化した権力は次第に対立していく。直義派と高師直らの反直義派は観応の乱で内部抗争に発展。結局、弟の直義は排除される。直義の代わりに政治をまかされたのが、尊氏の長男・義詮である。彼が後に2代将軍になる。

 尊氏は京都に幕府を開く一方で、東国武士を束ねるため、見張りのために、鎌倉に鎌倉府を置いた。鎌倉時代の滅亡と同時に、鎌倉という町まで廃墟になったように思いがちだが、室町時代の鎌倉は、東国の中心として栄えていた。

 鎌倉府の頂点である鎌倉公方の初代は、尊氏の次男・基氏が務めた。以後、鎌倉公方は代々足利氏から出ている。一方、鎌倉公方の補佐役である初代関東管領は、上杉憲顕。関東管領は、代々上杉家が務めた。のちの事だが、鎌倉公方と関東管領の争いがもとで、鎌倉は衰えていく。

 上杉家は、憲顕を祖とする山内上杉家、弟・憲藤を祖とする犬懸上杉家、従兄弟の重兼を祖とする宅間上杉家、伯父・重顕を祖とする扇谷上杉家の4家に分かれた。4家の邸の地名をとって、○○上杉と呼んだ。なかでも山内上杉氏と扇谷は勢力があり、「両上杉」「両管領」と呼ばれた。

 上杉氏というと、戦国時代越後の上杉謙信や江戸時代米沢藩の上杉鷹山が、よく知られている。この両者とも関東管領の上杉氏と無関係ではない。

 鎌倉府が置かれてから200年以上後のことだが、1561年に越後の長尾景虎は鎌倉を攻略。このときに上杉憲政から山内上杉家の関東管領職を相続し、名前を上杉謙信と改めた。上杉の名は、全国統一を目指す長尾景虎にとって、通りが良かったのだろう。

 もともと上杉氏は、京都の中級貴族だった。鎌倉初期の重房の代に丹波国上杉庄の領主になり、上杉と名乗った。上杉氏が関東管領の地位にまで上りつめたきっかけは、上杉重房が宗尊親王に従って鎌倉に下ったことに始まる。越後や米沢の上杉氏のルーツは、丹波にあったのだ。

足利貞氏の墓 尊氏は1305年、鎌倉幕府の有力な御家人・足利貞氏の次男として生まれた。生誕地は、足利荘(足利市)・鎌倉・綾部の上杉荘(京都府)の3説があるが、どれも足利氏に関係ある土地なので納得する。

 鎌倉には何度も訪れているが、足利尊氏のルーツらしい史跡は1ヵ所しか見たことがない。昔の六浦街道(今は金沢街道)沿いにある浄妙寺に尊氏の父・貞氏の墓(左)がある。

 浄妙寺は頼朝に仕えた足利義兼が開いた足利氏の菩提寺。少し不便な場所にあるせいか、観光客で賑わう寺ではないが、れっきとした鎌倉5山の5位。鎌倉5山は、鎌倉時代に決めたのではなく、足利義満の時代に決めた。自分のご先祖さまが祀られている寺を5山にしないわけにはいかなかったのだろう。

 室町時代に「鎌倉府」があった頃の史跡は見たことがない。ガイドブックや観光協会が出している地図にも載っていない。鎌倉市は「武家の古都」というスタンスで世界遺産を目指している。本気で登録したいと思っているならば、室町時代の史跡も整備して欲しい。


鎌倉公方邸碑 やっと探したのが、足利公方邸旧蹟の碑(左)。鎌倉駅と金沢八景方面を結ぶ金沢街道沿いのバス停「泉水橋」のすぐ側にある。頼朝に仕えた足利義兼が居を構えてから250年以上、足利氏の邸だった。

 尊氏の父・貞氏の墓がある「浄妙寺」や、初代公方・基氏が中興した「瑞泉寺」や、尊氏の祖父・家時が開基した竹の寺「報国寺」に近い。

 邸は跡形もないが、現存している寺のおかげで、この一帯に勢力を持っていた足利一族の様子が目に浮かぶ。

 足利公方(鎌倉公方)は、1455年に関東管領に敗れて下総の古河に下り、古河公方と呼ばれるようになる。古河公方の館址は、茨城県古河市に整備されていると聞いている。ぜひ行ってみようと思っている。この時からだいぶ経ってしまったが、古河市に行ってきた。古河公方ウオーキングは、下のほうに茶色の字で記した。

 鎌倉で主を失った邸は廃墟になり、同時に鎌倉の町も「都」としての機能を失っていく。今でこそ観光で賑わう鎌倉だが、江戸時代には寂れていたという。皇居があった1000年の都・京都とは格が違う。

関東管領邸碑 関東管領の上杉家は4つもあったので、それらしいものが1ヵ所ぐらいはあるかと期待したが、たいした成果は得られなかった。

 扇谷上杉管領の邸(左)の碑を見つけるのも苦労した。なんせ横須賀線の線路際にあり、目安は寿福寺踏切に近いことだけだ。

 線路をはさんで向かい側の英勝寺を目指した方が分かりやすいかもしれない。英勝寺もあまり有名ではないが、鎌倉五山の3位・寿福寺から北に5分も歩けば着く。

太田道灌邸碑 その英勝寺の門の脇には、太田道灌邸旧蹟の碑(左)があった。太田道灌から4代目の康資の娘は、徳川家康に仕え「お勝の方」と言われた。のちに道灌の故知をもらい、英勝寺を創建した。

 管領・上杉氏の名前を知らなくても、江戸城を建てた太田道灌は有名だ。「七重八重 花は咲けどもやまぶきの 実のひとつだになきぞ悲しき」の、少女との逸話もよく知られている。

 私は銅像めぐりで2回にわたって太田道灌を書いているが、彼の邸が鎌倉にあったことを知らなかった。今の鎌倉市は太田道灌をまったく宣伝していない。石碑だけを見ても面白くないと考えているのかもしれないが、上杉管領の邸と道灌の邸のロケーションを知るだけでもいい。太田道灌を家来に持ったことで、扇谷上杉家は家名をあげることができた。でも猜疑心を持った上杉氏の手で暗殺されてしまう。日本史ウオーキングシリーズで、こういった事実を何度耳にしたことか。(2011年5月9日記)

2012年の春、茨城県の古河(こが)市に行ってきた。古河市は、関東地方のほぼ真ん中、茨城県の最西端にある。目的は室町時代の古河公方跡を見る事だったが、江戸時代の古河藩(土居利勝など譜代大名11家が藩主)の城下町の名残も味わう事ができた。本陣址があり、店構えにも歴史を感じる。

 
JR東北本線(宇都宮線)の
古河駅

 
商店街の脇に
古河城下本陣跡の
石碑が建っている

 
古い看板の店
北野綿店
蚊帳・蒲団の字も見える


鎌倉公方(足利氏)は、関東管領(上杉氏)との争いに敗け、鎌倉から古河に拠点を移した。このとき1455年から120年余、古河公方がこの地に君臨した。

古河駅から渡良瀬川方面にバスで10分の所に25ヘクタールもある古河総合公園がある。古河公方当時の建物は何も残っていないが、この公園のほとんどが城址と周辺の敷地だと聞き、古河公方の存在が私の頭の中で具体的になった。今は、石碑と説明板が建っているだけだが、来てよかったと思う。

 
古河総合公園の御所沼
古河公方時代は
天然の水堀だった

 
古河公方館址の
石碑と説明板

 
古河公方館址
の碑は2つ建っている


 (2013年11月9日 記

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