3代将軍・義満は、勢力が衰えた南朝を吸収する形で南北朝合一を実現。60年続いた南北朝の動乱を終わらせ、各地の守護大名の力を抑えこんだ。
義満の邸は、当時の土御門内裏の2倍の広さがあり、名花・名木が集められていたので、
花の御所
とも呼ばれた。1476年、応仁の乱で全焼するまで約100年間、室町幕府の政治の中心でもあった。
花の御所が室町にあったことから、後に室町幕府と名付けられた。花の御所の様子は、屏風図(左−洛中洛外図屏風−・上杉博物館で買い求めたパンフレットのコピー)や文献で知るしかない。
とはいえ、少しの面影を求めてレッツゴー。地下鉄烏丸線の「今出川駅」近く、今出川通りと室町通りの交差点に、
足利将軍室町第跡
の石碑が建っていた。この碑と室町通りの標識以外がなかったら、室町幕府がここにあったなど想像すら出来ない。
ここから少し北にある上御霊神社の境内にある
花の御所八幡宮
も、室町幕府と関係がある。もともと義満が守護神として御所内に建てた神社。太平洋戦争中の御池通の強制疎開で、この地に移った。
石碑には「従是東北足利将軍室町第跡」と彫ってある。
室町幕府の名は、この室町から来ている。
義満が御所の中に造営した花御所八幡宮
室町幕府が政治を執った建物は何もないが、この時代の寺は、金閣寺・銀閣寺はじめ、たくさん現存している。特に臨済宗は尊氏が夢窓疎石に帰依したことから、将軍家の保護で栄えた。義満は南禅寺を五山の上におき、
天竜・相国・建仁・東福・万寿の京都五山
を決めた。鎌倉五山を決めたのもこの時である。
この時代に生まれたさまざまな芸能や芸術も、今に続いている。「和文化」の源流は、この時代に生まれたと言っていい。華道・茶道・能楽・水墨画・枯山水の庭園・書院造りなどなど。
3代義満のころの文化を北山文化、8代義政のころの文化を東山文化と言う。もちろん義満の金閣が北山に、義政の銀閣が東山に建てられたことからの名称だ。
義満建立の金閣は
1階が寝殿造り、2階が和様建築、3階が禅宗様式
。公家文化と武家文化の融合の象徴でもある。
義満は、1408年に亡くなるまでの10年間を、芸術家たちとここで過ごしたという。このサロンから文化が育っていった。
金閣寺は高校の修学旅行で初めて見て以来何度も訪れているが、池に映る黄金の3階建ては、いつ見ても美しい。以前は鹿苑寺と呼んでいたが、金閣寺と呼ぶ人が多くなり、「通称 金閣寺」となった。門の入り口にそういう断り書きがある。
銀閣寺も慈照寺だったが、同じ理由で「通称 銀閣寺」。義政のころは財政難で、銀を貼る余裕がなかったとも言われるが、実際にはもともと貼る予定はなかった。金閣との対比で銀閣と呼ばれるようになったらしい。銀閣寺の落ち着いた風情は、日本人が好きな「侘び錆び」に通じる。
50年ぐらい前は、茶道や華道を習う人がかなりいた。今は、当時ほど盛んではないが、伝統はしっかり引き継がれている。
地下鉄烏丸線「烏丸御池」から徒歩3分にある
華道発祥の地・六角堂
に行ってみた。六角堂の北の本坊は、かつて池坊と呼ばれ、たくさんの生け花の名手が出たところ。花は、神仏に供えるものだったが、義満のときから花瓶にさして鑑賞、義政のころには、書院造りの床の間に飾るようになった。
六角堂の裏手には
池坊
ビルが建っている。中には入らなかったが、ガラス越しに「専好立花」の飾り物が見えた。説明は外側についているから、中に入らなくても見えるようにしてくれているのだろう。
「32世池坊専好は江戸初期に活躍した家元。専好の立花は約200点残っているが、これはそのうちの1つ。水仙一色の立花を再現したもの」という趣旨の説明がついていた。
義満の頃のお茶は、茶の産地や良否をあてる闘茶が流行していた。村田珠光の頃には禅の作法を取り入れて芸術性を高めた。のちに千利休が、わび茶として大成させた。
上京区にある茶道の表千家の不審庵、裏千家の今日庵は、道路をはさみ向かい合わせに建っている。裏千家は、表千家の裏に建てたと言うが、今の地形では裏か表かよく分からない。近所に茶道資料館・茶道具屋・和菓子屋が軒を連ね、いつ行っても和服の人が歩いている。
千利休は堺の豪商魚屋の長男。武野招鴎に師事したのちに、独自の「わび茶」を完成させた。茶頭として信長や秀吉に関わっていく。
茶道発祥の地
と言えるのが、堺市堺区にある
利休邸跡
だ。2011年3月に行ってきた。利休が茶の湯を点てるときに使った「椿井」が残っている。井戸の屋形は、大徳寺の古材を使っているそうだ。
「この土地を買って整備したのは裏千家です。利休の邸跡といっても、なんにも残っていませんが、裏千家が買わなければマンションにでもなっていたでしょう」と、ガイドが話してくれた。
堺市に残る利休邸あと。常用していた椿井が残っている。
表千家の門。左石碑には「千利休居士遺跡不審庵」とある。
裏千家の門。右石碑には「千宗旦居士遺跡今日庵」とある。
能楽発祥の地
は、東山区今熊野にある
新熊野神社
だ。この神社で興行していた観阿弥世阿弥一座の催しを、義満は自ら出向いて鑑賞したという。庶民芸能にすぎなかった猿楽は、義満の保護を得て能楽に大成する。新熊野神社の「能」と彫られた石碑を写真で見たことがあるが、私はまだ行ってない。
室町時代のよすがは何もないと嘆いてはいたが、丹念に探したことによって、この時代が少しは見えてきた。京都近辺にお住まいの方は、もっとご存知だと思う。教えてくださるとありがたい。 (2011年5月30日 記)
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