3代将軍義満以降の室町政権は、守護大名を統制できず、名前だけの中央政権だった。6代将軍義教が、守護大名の赤松満祐に暗殺されてからは、ますます衰えていく。
8代義政は跡継ぎに恵まれなかったので、弟の義視に家督をゆずることを決めた。よくある話だが、そのあとで正室の日野富子が義尚を出産。
富子は義尚を将軍にするために、山名宗全に頼った。義視は、管領の細川勝元を頼った。こうして時期将軍をめぐる二大勢力の戦いが、11年にも及ぶ応仁の乱に発展していく。
義尚派の山名宗全と義視派の細川勝元。この対立は、内紛の渦中にあった畠山家をも巻き込んでいく。
畠山家内紛による戦いが、応仁の乱のきっかけになった。1467年正月、山名派の畠山義就と細川派の畠山政長が、御霊神社の林で決戦を交えた。
この地に、応仁の乱勃発の碑(左)が建っていると聞き、行ってみた。前項で書いた花の御所八幡宮と同じ場所、御霊神社の入り口にある。
応仁の乱の序幕は、政長が勝利したが、これ以降、山名・細川の両陣営は戦時体制を敷き、5月から全面的な戦闘に入った。
山名宗全は自宅に本陣をおいた。周辺には二重の堀と高い櫓を築いたという。もちろん今は堀すらないが、邸あとの上京区堀川通五辻西に碑(左)が建っている。
ちなみに、西陣織で有名な西陣は、「西軍の陣地」からきている。西軍・山名氏の陣地があったところだ。
西陣の大きな石碑は、京都市考古資料館前に建っている。山名宗全邸跡とは、もちろん近い。
西陣は、応仁の乱の前から織物の町だったが、戦争中は各地に離散。戦後に職人達が戻ってきて織物を再開した。以後500年以上、織物の町は続いている。
東軍・細川氏の本陣は花の御所で、今の相国寺あたりが「東軍の陣地」だった。当時はそのあたりを東陣と呼んだらしいが、東陣の名は、地名にも残っていない。
相国寺(左)は尊氏が10年をかけて創建した寺だが、応仁の乱で焼失。今あるのは再建だ。
境内は非常に広くて清々しい。紅葉の真っ盛りに時に訪ねたが、観光客はまばらだった。
数年前に、船岡山(北区紫野北舟岡町)に登った。船岡山のことは「22長岡京と平安京」 で書いているが、ここが応仁の乱と永正の乱(1511年)の地だった事を、そのときに初めて知った。
応仁の乱では、山名宗全がとりでを築いたという。そのときの空堀(左)が残っていた。
応仁の乱は1477年まで11年間続いたが、勃発から6年後に宗全と勝元が相次いで亡くなるや、京都での戦乱は一応終息した。次期9代将軍は、義尚で落ち着いた。
この乱は、京都を灰の町にしたばかりでなく、日本中を戦乱に巻き込むきっかけを作ってしまった。
地方の守護代(守護大名の代わり)は、守護が京都で戦っているすきに現地で力を拡大。土着の武士である国人も力をつけてきた。
上杉謙信・織田信長・朝倉義景は守護代出身。伊達政宗・毛利元就・徳川家康・長宗我部なども国人出身だ。のちに戦国大名として名を馳せたほとんどは、名門出身ではない。北条早雲にいたっては、素性すらよく分からないという。いわゆる下克上の世が到来した。
ちなみに、守護大名自身が守護代や国人をおさえて戦国大名になったのは、武田・今川・大友・島津などごく少数だった。
応仁の乱史跡めぐりのついでに、人形の寺として有名な宝鏡寺に寄ってみた。ついでとはいえ、ここも応仁の乱に無関係でないことが分かった。将軍の跡継ぎ問題を引き起こした日野富子の木像が祀られている。木像は公開していなかったが、宝鏡寺が所蔵している皇室ゆかりの人形を展示していた。
|
|
|
日野富子の木像がある宝鏡寺。人形もたくさん所蔵している。 |
西陣織りの工場。手仕事を見学できる。 |
応仁の乱後、復興した祇園祭り。洛中洛外図屏風のコピー。 |
当然ながら、西陣織の中心地も近い。以前は、ひっそりとした町家の中から機の音が聞こえてきた。今は観光客が気軽に見物できるような施設「織成館」が、大黒町「石畳のこみち」沿いにに建っていた。
昭和11年に建てた家屋だけでも見応えがあるが、能装束や普段着の展示も楽しく、手織り工場の見学もできた。渡文株式会社の職人さんが、一生懸命に説明してくれた。西陣織は、冬の時代と言われるが、伝統を引き継いでいこうとするいう姿勢に、心から応援したくなった。
私は残念ながら、祇園祭を見たことがない。八坂神社の祭礼だが、応仁の乱勃発後20年間は途絶えていた。復活させたのは町衆だった。廃墟になった京の復興に力を発揮したのは、武士でも貴族でもない。西陣織や祇園祭りの復興は、町衆によるものだった。 (2011年7月9日 記)
感想や間違いをお寄せ下さいね→
次(最初の戦国大名 北条早雲)へ
日本史ウオーキング1へ
ホームへ
|
|