47.桶狭間の戦い(戦国〜安土桃山時代)
 

 桶狭間の戦いは、永禄3年(1560)5月19日、尾張の織田信長が、駿河・遠江・三河の今川義元の大軍を打ち破った戦いである。この戦いは、織田信長の天下取りの第一歩。戦国時代を取り上げるからには、どうしても訪れなければならない所だ。ところが、「義元が奇襲を受けた桶狭間はここだ」の地域が2ヶ所(名古屋市緑区と隣接する豊明市)ある。

 この時(2010年10月)のウオーキングに参加した3人の住まいは、仙台・浦和・横浜で、東海地方とは離れている。桶狭間だけに割く時間はないので、1ヶ所だけ訪問することにした。

 前日18日に、沓掛城に着いた今川義元は、19日朝に城を出発。「おけはざま山」と言われる丘陵(下の地図のD)に本陣を置いた。奇襲を受けた義元が、この丘のどちら側に逃げたかなど、今となっては分からない。

有松絞の店 名古屋市緑区と豊明市にある両所は、地図で見る限り非常に近い。名鉄の駅も「有松」と「中京競馬場前」と並んでいる。属している市が違うので、本家争いになるのだろう。

 私たちにとって、少々の場所の違いはどうでもいい。検索で見つけた「桶狭間古戦場保存会」に連絡を取ってみた。保存会副会長の梶野さんが、名鉄の「有松駅」まで迎えに来てくださることになった。

 有松は旧東海道に面した町で、有松絞りは尾張藩の保護を受け発展した。駅を降りるや黒塀の老舗(左)が、目に入ってくる。天明4(1784)年の大火後の復興で、江戸時代街並みの保存地区になっている。見学できる家も数軒あるようだ。

桶狭間図  梶野さんと一緒に、左パンフレットの赤い道路を歩いた。なんせ、すべて○○跡だから、梶野さんの案内がなかったら、史跡を探すのは大変だったと思う。

 まず@の高根山。今川軍の先鋒の松井宗信隊が、織田軍の善照寺砦や中島砦を監視した高台。

 次はBの七ツ塚。義元を討ち取って勝鬨をあげた信長は、村人に戦死者を埋葬するように命じた。以前は別の所にあったが、区画整理で今の所に移された。

 順路のCが、このコースのハイライトである桶狭間古戦場の義元戦死の地。田楽坪とも言われる。

 梶野さんによると、「通説になっている迂回奇襲説は、フィクションと言われています。迂回説だと、義元戦死の地は、豊明市の南舘。昭和12年建立の古戦場跡の碑も立っています」

 「でも今は、郷土史家たちの間では、善照寺砦から中島砦を通り、本陣に正面攻撃をしたという説が有力になってきたんです。逃げまどう義元は、田楽坪付近で討ち死にしました」

 ここ桶狭間古戦場公園に、織田信長と今川義元の2人の銅像が並んで立っている。今川義元最期の地の石碑や、義元の墓もある。敗者への同情なのか。義元を悼む碑が多い。

 田楽坪から坂道をあがっていくと、義元が本陣を置いた「おけはざま山」(地図のD)がある。前衛隊が布陣する高根山、幕山なども一望でき、本陣には適した山だ。もっとも、「おけはざま山」は実在しないそうだ。「桶狭間の山」という意味で使われたらしい。

 桶狭間の戦いの時は、今川義元42歳。駿河・遠江・三河の100万石の領主。信長は27歳、尾張半国17万石の領主。客観的にみると、勝ち目のない今川軍との戦にいどんだのが、信長である。

 京都に上り天下統一を夢見ていた義元の野望は、断ち切られた。そして、弱冠27歳の若者が、天下取りの第一歩を進めたことになる。


織田信長と今川義元 義元本陣跡
今は古戦場公園になっている義元最期の地。信長と義元の2人の銅像が並んで立っている。  義元の本陣が置かれたおけはざま山。ここで休息中に攻撃された。 

                                                  (2012年1月27日 記)
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