一乗谷の遺跡は、福井市街から東南約10㌔のところにある。戦国大名・朝倉氏の城下町が埋まっていたことで、注目を浴びた。昭和42年から始まった発掘調査の様子は、当時はよく報じられていた。信長は、朝倉氏を滅ぼした後に城下町を焼き尽くしたが、そのまま放置されていたのが幸いしたようだ。昭和46年に、城下町ばかりでなく、一乗谷城をふくむ278平方㌔が国の特別史跡に指定された。 一乗谷に行ってみたいものの、メンバーの都合があわないので、2011年9月に1人で行ってきた。福井駅前からバスに乗ること30分。ひなびた農村地帯に、幟が立っている一画があるので、そこが遺跡だと分かる。 朝倉氏は兵庫県の豪族だったが、孝景のときに一乗谷に本拠を移し、1475年には越前をほぼ平定した。以後、孝景(英林)・氏景・貞景・孝景(宗淳)・義景と5代100年間も繁栄した戦国大名である。 左は当時の想像図。発掘された礎石や、周囲の山や川(一乗谷川)を見ると、単なる想像ではなく、ほぼこの通りだったのだろう。 西の山際には、寺の跡があり卒塔婆や墓地が発見されている。東の山際には、重臣の邸が並ぶ。 南北幹道沿いには、職人の家(紺屋・鋳物屋・刀研ぎ師)や医者の家などが町屋を作っている。復元されているのは主にこの町屋部分。発掘された塀の石垣や建物の礎石を使い、柱・壁・建具なども出土した遺物に基づいているので、復元とはいえ、現実に近い。
私が歩き回ったのは、復元町並みと庭園と武家屋敷跡の部分だけで、473㍍の山頂にある一乗谷城址には行ってない。 登山道も整備されているようだが、上まで行く時間はなかった。千畳敷・一の丸・二の丸・三の丸・空堀などが残っている。(左は城址パンフレットのコピー) 1573年8月、信長が朝倉義景を破った戦いを一乗谷の戦い、あるいは、激戦地の名前をとって、刀根坂の戦いと言う。刀根坂は、滋賀県の余呉町と福井県の敦賀との境にある。標高395㍍の峠道。 朝倉軍は、刀根坂で信長軍の追撃をうけ、ほぼ壊滅した。義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還。 義景を追った信長は、一乗谷の市街地を襲撃し焼き払った。1万人もの人口で繁栄を誇った町は、一瞬にして焼け落ちた。この戦いで、信長の領土は、越前・若狭にまで拡大した。信長の台頭を、改めて日本全国に知らしめることとなった戦いとも言える。 信長は、引き続き、近江の小谷城の戦いで浅井軍を破り、浅井久政・長政父子は自刃。 このとき命を助けられた長政の正室「お市の方」と、三人姉妹(茶々・初 ・江)は、次なる戦国の世で、数奇な運命をたどる。 |