49. 長篠の戦い(戦国〜安土桃山時代)


 徳川・織田連合軍と武田軍が激突した長篠の戦いは、合戦図屏風がどの教科書にも載っているほど、知られている。

 1575年5月、鉄砲を駆使した信長が、武田勝頼に勝利した戦いである。

 ところが、屏風に描かれた戦場は、設楽原(したらがはら)であって、長篠城とは4`離れている。

 駅で言うと、長篠城は「長篠城駅」。 設楽原は、「三河東郷駅」。3駅離れている。

 資料館のパンフレットには、設楽原の決戦とか、長篠・設楽原の戦いとなっているが、当然だと思う。

 左は、設楽原資料館の模型を撮った写真。右上に長篠城、左下に設楽原と見える。赤い幟は武田軍、青い幟は織田軍と徳川軍。


 有名な合戦図屏風の現場を見てみたい。屏風図の地が設楽原だとは分かったが、長篠の戦いとなっているからには、長篠城も関係があるはずだ。2010年10月、東海道新幹線の豊橋で飯田線に乗り換え、まず「長篠城駅」で下車。無人駅だが、城をかたどった駅舎がかわいい。

 駅から10分ほど歩くと、長篠城址に着く。豊川と三輪川の合流地点の崖上にあり、戦国末期の城郭の跡をよく残している。本丸跡や苔むした土塁に接すると、「兵ども」の戦いが目に浮かぶ。「長篠城址史跡保存館」で展示を見ていくうちに、長篠城での攻防が発端になって、設楽原の決戦になった経緯が分かってきた。

 
JR飯田線の長篠城駅は無人だ 
城址に建つ長篠城址史跡保存館 
武田勝頼の本陣だった医王寺 

 長篠城(奥平信昌が城主)は、武田勝頼が率いる15,000人の軍に囲まれた。信昌に娘・亀姫を嫁がせている徳川家康が、援軍に向かい、なんとか城を持ちこたえることができた。この資料館には、私が初めて名前を聞く「鳥居強右衛門」の磔刑図がある。彼が命がけで家康に援軍を頼んだことから、結果的に城は無事だったので、今でも英雄だ。飯田線にも「鳥居駅」がある。

 長篠城から1`ほど坂道を上がっていくと、勝頼が本陣を置いた医王寺に着く。上の模型では、長篠城の右上になる。高台なので、武田軍の陣地がよく見えたという。

  長篠城址を見学後、JR飯田線を豊橋訪問に戻る形で、「三河東郷」で下車。15分歩いて、設楽原歴史資料館に行った。設楽原の戦いの説明はあるが、当時の遺物はない。それに比べ、火縄銃の展示は充実している。当時の鉄砲は、一発ごとに火薬を詰めるので、今考えるほどの威力はなかったと考えてよさそうだ。飛距離も短かった。

 左は長篠合戦図屏風(白亭文庫本)の一部。パンフレットのコピーなので鮮明ではないが、連吾川を挟んでの鉄砲と槍刀との攻防が描かれている。

 3000の鉄砲が3段連射で活躍した戦いとして知られ、屏風図もそのようになっているが、当時の史料には3段撃ちをしたという記述はない。

 3段連射は江戸時代の軍記物に登場。明治時代に陸軍参謀本部が出した「日本戦史」に取り上げられたことで、広まった。

 この屏風図の真偽は怪しいとはいえ、信長が、早くから鉄砲の威力に着目していたことは確かだ。鉄砲の供給元として「堺」を抑えたり、鉄砲衆を育成したり、参戦していない武将から鉄砲を借りる手段も考えていた。

 もともと長篠の戦いは、家康と勝頼の激突だったが、援軍を頼んだ信長の働きが目覚ましかったことで、歴史的には、信長が勝頼を破った戦いとして有名になっている。

 敗走した勝頼は、7年後の天目山の戦いで自刃。武田家が滅亡するにいたった戦いでもあった。

 設楽原には、馬防柵が復元されている。両軍が対峙した連呉川も残っている。今見る川の幅は非常に狭くて、本当にここが境界線だったのか不思議に思う。どこまでが真実かどうかは、学者でもない私たちには、さほど重要ではない。戦いの場が地元民の努力もあって残されていて、継承されていることに意義があるように思う。

設楽原歴史資料館の屏風と鉄砲 
両軍が対峙した連呉川 
馬防柵の復元 


            (2012年4月9日 記)

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