50.安土城築城(戦国~安土桃山時代)


  歴史の現場に立ってみたいという、それだけのささやかな願いで始めた日本史ウオーキングは、いつの間にか50回。「天下布武」を明確にかかげた織田信長の城を取りあげるのは、節目の回にふさわしい気がする。

 信長は、1534年に那古野(なごや)城で生まれた。那古野城は、現在の名古屋城と同じ場所にあった。二の丸庭園で那古野城跡と掘った石碑を見たことがある。

 信長の居城は、1555年清州城(なぜか字が違う清須市にある)、1563年小牧城(小牧市)と変わっていった。両方とも名古屋に近いが、関東に住んでいる私には少し遠い。桶狭間の戦いのときに出陣したのは清洲城、信長の跡継ぎを決めた清洲会議が開かれた場でもある。ぜひとも行ってみたい。

 1567年には斉藤道三の孫・龍興から稲葉山城を奪い、岐阜城という名前にした。宣教師フロイスが壮麗さに驚いた城だ。このときから「天下布武」の朱印を使い、岐阜を天下統一の本拠にした。

 岐阜駅前の銅像(左)は、右手に鉄砲、左手に西洋兜。最初に見たときは、ド派手な金色にびっくりしたが、信長らしいのかもしれない。

 高台にある岐阜城は、市内のあちこちから見える。もちろん当時のものではなく、1956年に復元した城だ。2010年秋に念願の岐阜城に上るつもりだったが、その日は土砂降り。翌日は快晴だったので再訪。岐阜市内と濃尾平野と長良川が一望できたので、再チャレンジの甲斐はあった。信長もこの景観に大満足だったような気がする。

 

岐阜公園入口にある「若き日の信長像」。
左上に雨に煙る城が見える。 

1956年に復元、1997年に改修した岐阜城 。

城の眼下には長良川や濃尾平野が広がっている。 
 

安土駅前の信長像 1576年、安土に本拠地を移すことになった。1576年といえば、長篠の戦いで勝利をおさめた年。京都をめざして天下をとる体制ができた頃だ。後の世に「安土桃山時代」と呼ばれる安土である。安土には、2002年と2012年4月に行った。

 今の安土は、新幹線はもちろん、JR琵琶湖線も快速は停まらない。なぜこんな所にと思わないでもないが、安土の地を踏むとよく分かる。岐阜よりも京都に近いし、琵琶湖の水運を利用できる。北国街道に近く、北陸に睨みをきかすこともできる。今の交通事情とまったく違う事を、頭に入れねばならない。左写真は、安土駅前にある信長像。幸若舞を舞っている姿だろうか。

 安土城は1579年に完成した。本能寺の変は、それから間もない1582年6月2日。信長憎しといえど、この城まで焼くことはなかろうと思うが、6月15日に焼けてしまった。息子の織田信雄が、明智軍の侵入を防ぐために焼いた、明智軍が放火した、土民が略奪後に放火したなど諸説ありはっきりしない。

模型 これまで、たくさんの○○跡を見てきたが、ここほど本物を見たいと思ったことはない。20年に及ぶ発掘調査や著作によって、城の概要はかなりわかってきた。模型(左)が博物館や信長の館に展示されているし、コンピューターグラフィックスによる復元も見ることができる。でも物足りない。

 もとの場所に復元して欲しいとは誰もが思うことだが、今のお金でどのぐらいかかるものやら。なんせ5層7階(地上6階地下1階)で、高さが33mもあったという。とはいえ、史跡に指定された城址に復元を建てるのは禁止されている。

 イエズス会宣教師のルイス・フロイスは、『日本史』で安土城の様子を書いている。
 


復元天守中心には、彼らがテンシュと呼ぶ一種の塔があり、私たちの塔より気品があり壮大な建築である。この塔は七重からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営された。

事実、内部にあっては、四方に色彩豊かに描かれた肖像たちが壁全面を覆い尽くしている。外部は、これらの階層ごとに色が分かれている。あるものはこの日本で用いられている黒い漆塗りの窓が配された白壁であり、これが絶妙な美しさを持っている。ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色である。

このテンシュは、その他の邸宅と同様に我らの知る限りの最も華美な瓦で覆われている。それらは、青に見え、前列の瓦には丸い頭が付いている。屋根にはとても気品のある技巧を凝らした形の雄大な怪人面が付けられている。


 「安土城考古博物館」には、文様に金箔が使われた瓦が展示してあった。搦手口を発掘していたときに見つかったそうだが、これだけでも残っていてくれて良かった!と思う。

 「信長の館」は、原寸大の5階と6階部分(左)の復元を収納するために作った。セビリア万博(1992年)に出展したものを、解体移築した。想像の復元とはいえ、城郭の専門家が関わっているので、このようなものだったのだろう。大河ドラマ「江」のロケもここで行われた。


安土城址図 2つの博物館を見たあとに、徒歩10分の城址に向かった。10年前は入場料を取らなかったが、今回は500円。城址で入場料を取られたのは初めてだ。

 大手門を入るとすぐ「大手道」の石段が続いている。左には羽柴秀吉邸あと、右には前田利家・徳川家康邸あとの碑がある。重臣たちの邸が、大手門そばに連なっていたようだ。秀吉の邸は、立派な櫓門・厩・たくさんの建物群があったことが、発掘調査で分かった。

 城址を1周できる道が、整備発掘にれている(左)。わずか199mの山だが、ふだん歩きなれていない人には、つらいと思う。むしろ若者がへばっていた。1周すると、歩くだけで45分ぐらいかかる。


羽柴秀吉邸あと 大手道 前田利家邸あと

羽柴秀吉邸あと。この邸はコンピューターグラフィックスで再現されている。 

大手門から続く大手道。
上り階段が続いている。 

前田利家邸あと 


 天守跡の東西、南北28mの台地には、礎石が残っている。博物館で模型を見てきたばかりなので、その姿をこの石の上に置いて想像してみる。当時は、琵琶湖の内湖で囲まれ、南だけが陸地だったようだ。今は干拓されたので、広々とした田や内湖の名残り「西の湖」が広がっている。遠くに琵琶湖も見えた。

 当時の建物で現存しているのは、摠見寺の仁王門と三重塔。信長が自分の菩提寺にするために、甲賀から移築させた臨済宗の寺。城が焼け落ちても寺は残ったが、本堂は江戸時代に焼けてしまった。


天守跡の礎石 天守跡からの琵琶湖 当時のままの仁王門

28m四方の天守跡。往時をしのばせる 礎石が残っている。

天守跡から「西の湖」や琵琶湖を眺めると伸びやかな気持になる。 

信長の菩提寺「 摠見寺」の仁王門は当時のままである。

                                                (2012年5月9日 記)
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