51.本能寺の変(戦国〜安土桃山時代)
 

 安土城がほぼ完成したのは1579年だが、天守閣内部の完成は1581年9月だった。本能寺の変は、1582年6月2日。天下をほぼ手にしていた信長の絶頂期が、かくも短かったことに驚く。

 なぜ明智光秀は信長を討ったのか。いまだに諸説が多く、謎につつまれている。というのも「逆臣」の史料の多くが消されたからだ。信長への怨恨説・天下を取りたいという野望説・その後の行動に計画性がないことからの突発説・朝廷黒幕説・足利義昭黒幕説・秀吉と家康の黒幕説など、どれも本物っぽいから面白い。

 原因はともかく、本能寺の変にいたるまでの動きは分かっている。

5月 17日 信長は、中国地方の毛利攻めをしている秀吉への援軍を、光秀に命じる。
6月 1日 丹波亀山城にいた光秀は、家臣たちに中国地方出陣を命じる。兵は1万3千人ほど。
       数時間後に、「敵は本能寺にあり」の決意を告げる。。
6月 2日 未明に本能寺を襲う。就寝中だった信長は、弓と槍を持って戦ったが、抵抗しきれずに自刃。

 私たちは光秀謀反の原因を探るなど大それた事は考えていないが、2012年4月、光秀が出陣した亀山城に行ってみた。伊勢(三重)にも亀山城があったので、区別するために丹波亀山という。光秀が近江坂本と丹波亀山の2つの城主だったことからみても、信長の重臣だったことは間違いない。

 とてもややこしい事に、丹波亀山城は京都府亀岡市にある。版籍奉還のときに、伊勢との混同を避けるために、丹波亀山藩を亀岡藩に改称した。なぜ改称したか?

 亀岡市出身の近所の知人が、亀岡の観光大使をしている。彼に聞いて見たら、その説が載っている資料をメールで送ってくれた。

明治新政府に恭順の意を表すため、「亀山」の名称を伊勢に譲り、「亀岡」と地名を改めたという説が有力だ。「亀」は亀山から引継だと推測することは容易だか、「岡」の根拠は? といわれると明らかではない。「もともと亀山城の地形は山というよりも、岡(丘)に近かったため、亀岡になった」との説がある。また「戦国時代、余部に岡山城があったので、亀と岡で、亀岡になったのではないか」といった説もあるが、いずれも今のところ、明らかな根拠はない。


亀岡駅 亀山城の堀 亀山城址

亀山城址に近い亀岡駅 

亀山城の堀は桜が満開だった 
 
大本の信者が毎日境内の清掃をしている。復元された石垣

 
亀岡は、京都駅からJRで30分もかからない。駅の観光案内所にはパンフレットがたくさん用意してあった。「光秀は世に言われているような武将ではなく、誠実で教養の高い文化人でした。”大河ドラマの主人公に”の運動をしているので署名をしてください」と頼まれた。個人的には史実を無視している大河ドラマに疑問を持っているが、一生懸命さが伝わってきたので、名前を書いてきた

 
亀山城は、丹波攻略のために光秀が築城。江戸時代には天領になり、徳川の譜代大名が城主になっていた。明治初期の廃城で荒れ果てていた城を買い取って修復したのが、大本という宗教法人だ。

 城址に入るには、大本の受付に寄らねばならないが、気持ち良い応対で散策が許された。信者によって掃き清められた城址には、私たち3人以外はだれもいない。亀山城址を独占した気分だった。日本史を変えた張本人の城だとは信じられないほど、静まり返っていた。

本能寺の変の地図 信長は、6月1日に公家や豪商たちを招いて大茶会を開いた。息子の信忠も近くの妙覚寺に滞在していた。織田の重臣である羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益などは前線にいる。徳川家康は堺を見物。

 光秀にとって、こんなチャンスはない。信長の周囲に重要人物は誰もいなかったのである。こういう状況は誰かが仕組んだのか、単なる偶然だったのか。

 左の地図は「京都時代MAP(光村推古書院)」を、拝借した。亀山城を出陣した明智軍は、まず本能寺で信長を討った。息子の信忠は本能寺から1キロしか離れていない妙覚寺にいた。

 一報を聞いた信忠は本能寺に向かおうとするが、敵に囲まれ、二条御新造(親王が暮らす場所)に移る。無勢に多勢ではどうしようもない。信忠も26歳の若さで自害した。 


 本能寺跡の碑 現存している本能寺は、当時の建物ではない。場所まで変わっている。今の本能寺は7回目の建立だという。場所も5回変わっている。

 本能寺の変の本能寺は4回目の建立だ。石碑が建っているらしいが、地下鉄「烏丸駅」から歩いて行かねばならない。石碑だけを見てもどうしようもないなと思いながらも、やはりその地に立ってみたい。2012年4月に、地図を片手に探しまわった。

 住所は、中央区蛸薬師油小路。広い敷地に老人ホームが建っていて、その一角に、ふたつの石碑(左は、ふたつの石碑のうちのひとつ)がある。石碑だけでもないよりはマシだと思うしかない。

 訪れた日は、車いすのお年寄りが日向ぼっこをしていた。


 

本能寺今の本能寺(左)の住所は、中京区寺町通御池下る。便利な所にあるうえに、寺が残っているので立ち寄りやすい。数度行ったことがある。

 初めて行ったときは、ここが「本能寺の変」の現場だと思い込んでいたが、いろいろ資料を読むうちに、何度も変遷していることがわかりがっかりした。でも奥に信長の廟もあるし、宝物館には信長の遺品のお茶道具や甲冑も展示してある。

 唐銅香炉「三足の蛙」には、”本能寺の変の前夜、危険をしらせるがごとく突然鳴きはじめた”の説明がついていた。

 置物の蛙が鳴くなんてあり得ないし、誰がこのことを言い伝えたの、と突っ込みをいれたくなる。

 信長の廟ともなれば、あちこちにありそうな気もするが、私が見たのは2か所だけだ。本能寺の奥にある廟は3男の信孝が建立した。

 安土城の二の丸跡にある廟は、秀吉が建立。1周忌の法要もこの廟で行われた。信長亡き後の天下を世に知らしめる法要でもあった。

信長の廟 信長の廟

本能寺の奥にある信長の廟 
 
安土城二の丸跡にある信長の廟

                                                  (2012年6月9日 記)
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