47回から51回までは信長関連地を歩いてきたが、これから数回は秀吉の天下取りを書いていくつもりだ。 本能寺の変のときに、秀吉は備中高松にいた。毛利軍の清水宗治の城を水攻めしている最中だった。本能寺の変の2日後には、”信長死す”の情報を得たようだ。秀吉は、信長の後継者として名乗りを上げねばならない。いそいで毛利と和議を交わしし、6月5日には「中国大返し」が始まった。 本能寺の変後の光秀は、すぐに京都を制圧、美濃や近江を平定後、安土城に入った。それまでは、秀吉の動きを察知していなかった。秀吉が京へ戻ってくることを知ったのは6月10日。あきらかに情報戦で遅れをとっている。 6月13日、秀吉軍と明智軍は大山崎の円明寺川(小泉川)をはさんでに布陣をしいた。いわゆる天王山の戦いが始まった。 左の布陣図は、大山崎歴史資料館でもらったガイドブックのコピーである。赤が秀吉軍。青が明智軍。光秀軍が1万5千に対し秀吉軍は3万。 合戦は午後4時頃始まったが、短時間で勝負はついた。光秀は、細川氏の居城・勝竜寺城を経て、近江の坂本城へ逃げようとした。 しかし、途中で小栗栖(おぐるす)(京都市伏見区)の農民に竹槍でさされて最期をとげた。どう考えても、侍大将がこんな死に方をするはずがない。ことさら哀れな最期を演出した後世の作り話かもしれない。 明智の天下を「三日天下」という。実際にはもう少し長かったが、信長の死からわずか10日後に、光秀も命を落とした。 天下分け目の戦い大山崎での戦いは、天王山の戦いとも言われる。でも実際に戦ったのは、今の東海道新幹線と東海道線の間の地で、山上での戦いではない。勝利した秀吉が天王山の上に城を築いたことから、戦いの名がついたようだ。 JR「山崎駅」(左)に降りたのは2006年。奈良時代をウオーキングしているときだ。時代順に歩けばいいことは分かってはいるが、時間的にも経済的にも贅沢は許されない。でも現地に立ってこそ分かることはたくさんある。 「山崎」や「天王山」の地名は知っているが、東北と関東にしか住んだことがない私には、地理がぴんとこない。山崎が京都駅からわずか15分の所にあり、木津川・宇治川・桂川が淀川に合流する重要な地に位置することは、行くまでは分からなかった。 山崎に来た目的は、天王山に登ることはもちろんだが、アサヒビールの美術館と国宝の茶室「待庵」を見る事だった。待庵は妙喜庵にあり、利休が作った茶室で唯一現存していると言われる。豊太閤陣営(左)の字も石碑に刻んであった。 アサヒビールの美術館には陶芸作品が展示され、隣接する安藤忠雄設計の絵画館も「モネの睡蓮」など名画がたくさん。至福の時を過ごすことができた。 天王山の頂上は270.4m。登り口には、「秀吉の道」という天下取りの陶板が掲げられてある。ハイキングコースを登るにつれ、絵の内容も変わり、頂上についたらもう天下人だ。監修は堺屋太一氏。絵は日本画家の岩井弘氏によるもの。 300mに満たない山とはいえ、それなりの登山である。でも宝積寺の五重塔(聖武天皇のころの古刹)や旗立松展望台(秀吉が志気を高めるために千成瓢箪の旗印を掲げた)、十七士の墓(1864年の禁門の変で敗れた真木和泉守など17名の墓)など、たくさんの史跡を見ながらの登りなので、疲れは感じない。 たどり着いた頂上には、「山崎合戦之地」の石碑があるだけだけだった。礎石ぐらいは残っているのかもしれないが、落ち葉に隠れて見えなかった。 秀吉の道ハイキングコースの最後の陶板には、衣冠束帯姿の秀吉がいる。でもこの時は当面の敵を破っただけで、秀吉が本当に天下をとるには、まだ戦わねばならない敵がいた。
別な日に京都の知恩院付近で「明智光秀の塚」(左)を見つけた。英語とハングルと中国語での説明もついていた。 「家来は、小栗栖で命を落とした光秀の首を持ち歩いていたが、知恩院の近くに来た時に夜が明けたので、この地に首を埋めた」と言う。家来がついていながら、農民の竹槍も防げなかったのかと、またもや突っ込みを入れたくなる。 でもこんな塚が作られているところをみると、光秀が見直されているのかもしれない。 (2012年7月9日 記) 感想や間違いをお寄せ下さいね→ 次(賤ヶ岳の戦い)へ 日本史ウオーキング1へ ホームへ |