53.  賤ヶ岳の戦い(戦国〜安土桃山時代)
  

 1582年、秀吉は天王山の戦いで明智光秀を破った。信長を自害に追いやった光秀を倒したからには、自分こそ天下人という自負が秀吉にはある。

 信長の後継者を誰にするか。羽柴秀吉は孫の三法師(本能寺の変で犠牲になった信忠の子)を、柴田勝家は三男の信孝を推し、両者の主導権争いに発展した。決戦の場が世に名高い賤ヶ岳である。

 賤ヶ岳や余呉湖には行ったことがなかった。JR北陸本線の「木ノ本」に近い。木之本には湖北観音めぐりの時に行ったが、目的が違うので、古戦場には寄らずじまいだった。駅名は木ノ本だが、町の名は木之本。なぜJRがカタカナの「ノ」を使っているのか解せない。

 賤ヶ岳頂上までのリフトは、冬は動かない。再開すぐの2012年4月に1人で行ってきた。東海道新幹線の米原で北陸本線に乗り換える。各駅停車なので極端に本数が少ないが、どの駅にも下車したくなる。

伊吹山と小谷山長浜城(秀吉の居城)、姉川の古戦場(織田徳川軍が浅井朝倉軍を破った)、小谷城(浅井三姉妹の城、信長に攻められて落城)、石田山公園(三成屋敷あと)など、戦国時代の歴史が好きな人ならワクワクする沿線だ。

左写真は、賤ヶ岳の頂上から見た伊吹山(雪のある山)と小谷山城(右側の三角形の山)。

 木ノ本駅からロープウェイ乗り場まで小さなバス「七本槍」が出ていた。乗客が2人しかいなくて申し訳ないが、大河ドラマ「江」が終わってからも観光客が来てくれるように、アクセスを考えてくれている。

 1583年4月16日、織田信孝と滝川一益が美濃の岐阜で挙兵。その報に、木之本にいた秀吉は美濃に進軍。秀吉留守の間に、柴田軍の佐久間盛政が大岩山砦を陥落させた。大垣にいた秀吉は、52キロの道をわずが5時間で木之本に戻る。これを「美濃大返し」という。「中国大返し」「美濃大返し」など、若いころの秀吉は、咄嗟の判断が優れていたようだ。晩年までこういう判断力を持っていたならば、完全に滅びることもなかったろうに。

賤ヶ岳の戦い地図 左は木之本の観光案内所でもらったパンフ。赤が羽柴軍、青が柴田軍。

 天王山の戦いの戦場が麓だったように、この戦いも賤ヶ岳の頂上で戦ったわけではない。

 4月21日未明に秀吉は攻撃開始して、短時間で勝利をおさめた。賤ヶ岳の戦いの勝利で天下は、秀吉のものになった。

 頂上はうっとりするほど景色が良い。写真には写ってないが左側には琵琶湖も見える。こんな美しい景色を見ても、ひるむことなく戦い続けるのが武士だとは分かっていても、「嫁や娘に見せたいものよ」と思わなかったのだろうか。

 小さなバスの名前が「七本槍」となっているのは理由がある。この戦いで活躍した7名(福島正則・片桐且 元・脇坂安治・糟屋武則・加藤嘉明・加藤清正・平野長安泰)は、後に大名に取り上げられた。

 木之本の町で博物館に立ち寄った。実際に見てきた戦いの場をガイドが説明してくれたので分かりやすかった。館内の写真はとってはいけないと言う。「撮影を許した方が、みなさんがブログに載せるので宣伝になると思いますよ」と話してきた。

 木之本は、木之本地蔵院の門前町、北国街道と北国脇往還の宿場町として賑わった。今でも格子のある街並みが続き、風情がある。戦国史跡と宿場町の両方を楽しめた大満足の木之本だった。

賤ヶ岳記念碑 戦場となった余呉湖付近 木之本の街並み
 
頂上にある記念碑

余呉湖など戦いの場が見渡せる 

門前町・宿場町だった
木之本の風情 

 
 ところで敗者の柴田勝家はどうなったか。勝家の北庄城は、今の福井市にあった。築城は1575年だが、賤ヶ岳での敗戦と同時に落城。安土城をしのぐ9層の天守閣があったというが、この城も10年に満たず滅んでしまった。

 落城のときに、勝家とお市の方は自刃。3人の娘たちは、その後数奇な運命をたどる。3人の姫は2度も落城の憂き目にあいながら、華々しく歴史の舞台に出る。まるで小説のような一生だが、まったくの作り話ではないので面白い。

 北庄城址公園は、JRの福井駅から近く、しかも柴田神社・勝家の像・お市の像・三姉妹の像などが1ヶ所に固まっているので、私のように歩いている者には、嬉しいスポットだ。現存する福井城とは少し離れているが、発掘調査により、北庄城を基礎として福井城に発展していったと考えられている。

柴田勝家像 お市の方像 三姉妹の像

柴田勝家像 
 
お市の方像

三姉妹の像 

                                                  (2012年8月8日 記)
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