54. 天下人(戦国~安土桃山時代)

 1583年、賤ヶ岳の戦いに勝った秀吉は、自他共に認める信長の後継者になった。でも徳川家康はじめ、島津氏、長宗我部氏、北条氏、伊達氏など、まだまだ侮れない戦国大名が残っていた。

 秀吉の城下町 そんな中、1585年に関白に任じられたことで、ほぼ天下人の地位を手に入れたことになる。

 天下人としての秀吉は、大坂城築城以外に、方広寺大仏殿の建立、お土居や聚楽第を作ることで京都を公家の町から城下町に変えていった。

 左は、「京都・観光文化時代MAP-光村推古書院-」から拝借したイラスト。お土居という土塁と堀で囲み、敵からの備えにした。お土居の内側を洛中、外側を洛外と呼び、「口」と呼ばれる関所も作った。今でも粟田口など使われている。

 秀吉の邸宅と政庁を兼ねた聚楽第は、洛中の中心に作った。ここは平安時代の内裏跡でもある。

 今の京都には、秀吉のころの史跡があまりにも少ない。徳川時代に秀吉を思い出させるものを徹底的に破壊したので、京都と秀吉の関係を忘れてしまう。

黄金の茶室 なかでも一番残っていて欲しかった聚楽第は、跡地に簡単な石碑が立っているだけだ。宣教師フロイスが「木造建築としてこれ以上望めない」と絶賛した建物は、屋根もなにもかも金箔で覆われていたらしい。金箔瓦もたくさん発掘されているので、フロイスの絶賛は大げさではなさそうだ。安土城址を見たときもそう思ったが、聚楽第が残っていたらどんなに華やかだったろう。

 左は、熱海のMOA美術館に復元されている、秀吉の「黄金の茶室」。持ち運びができる組立式茶室で、聚楽第にあったものではないが、こんな部屋があったかもしれないと思い、載せてみた。


御土居の紅葉 上のイラストにある秀吉の京都で、かろうじて残っているのはお土居である。お土居の総延長は約22.5km。そのうちの何kmが残っているか知らないが、北野天満宮でお土居が見られると聞いて行ってみた。

 北野天満宮の境内西側に「もみじ苑」がある。御土居の紅葉ということで、平成19(2007)年に開苑した。何千本というモミジもきれいだったが、堀と土塁もしっかり残っていて感激した。

 堀には、散り始めたモミジの葉が重なっていた。
 

 今では大仏というと奈良の東大寺を思い浮かべるが、京都にも東大寺の大仏殿より大きい方広寺の大仏殿があった。もちろん大仏は黄金だ。

 大仏建立中に「刀狩り令」が出た。没収した刀や鉄砲は、釘やかすがいに使われたという。大仏殿建立を口実にした兵農分離が実施されたことになる。

大仏殿石垣 方広寺の面影も少しだけ残っている。方広寺の鐘の文字を撮るために、2012年春に歩いている時に、当時の大仏殿の石垣を見つけた。

 多くの大名が競って大きな石を運んだと想像するが、そんな石垣の一部が残っていた。「大仏殿石垣」と書かれた古い石碑があるだけで、新しい案内板は何もない。忘れ去られたような史跡(左)を見つけた嬉しさは格別だ。

 家康に因縁をつけられた方広寺の鐘の文字については、別の項で書くつもりだ。


 賤ヶ岳の戦いに勝った秀吉は、本拠を大坂に移転した。この台地の下にはかつては淀川の本流が流れ、天然の要塞だった。淀川を遡れば京都。戦国時代には石山本願寺があったが、信長による本願寺攻撃で、焼失したままになっていた。その跡地に築いたのが大坂城だ。

  大坂城といえば「太閤さんのお城」と言われているように、反射的に秀吉を思い浮かべるが、今の大阪城は、秀吉のころのものではない。ちなみに、明治以降、大阪と表示するようになった

 大坂夏の陣で豊臣家が滅びたあとは、徳川家のものになった。京都がそうであったように、大坂城も豊臣を思い出させるものは、すべて破壊して埋めてしまった。

 大阪城には、何度か行ったことがある。若い頃には「太閤さんのお城」を想像していたので、コンクリート製の外観にがっかりした。しかも内部には、エレベーターがあった。

 日本史ウオーキングを始めてから、大化の改新後の難波遷都の跡を見るために大阪城に行った。歴史博物館の窓から見えるライトアップの城が、まるで夜空に浮かんでいるようだったことを思い出す。

 次に行ったときは、ボランティアガイドの説明を聞きながら広い城址を歩き回った。「太閤さんのお城に数メートルも盛土をして、新しく縄張りもしたんです。だから、現存している石垣や幕末期の櫓や門は、すべて徳川時代のものです。豊臣時代のものは何もありません。発掘調査をしてはっきりしました」


石山本願寺推定地 ライトアップの大阪城 大阪城
 
大阪城公園にある石山本願寺
推定地。秀吉はここに築城した。



歴史博物館の各階の窓から
大阪城が見える。 


4層までが徳川風、5層目が豊臣風に復元してある。 



 今の大阪城は、1931(昭和6)年に再建したものだ。「豊臣の城は複合式望楼型、徳川の城は独立式層塔5重5階。昭和の復興天守閣は、初層から4層までを徳川時代風の白漆喰壁、5層目は豊臣時代風の黒漆に金箔で絵が描かれています」とガイドが説明してくれた。

 豊臣の城の概要は「大坂夏の陣」などの屏風で分かっているが、昭和6年というと、まだ徳川の威光もそれなりにあったとき。太閤さんの人気が高いとはいえ、すべて豊臣の城にすることができなかったのかもしれない。こんなことを思いながらこの城を眺めると、一段と興味がわいてくる。  (2012年9月9日 記)

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