55回 小田原落城 伏見城 朝鮮出兵(戦国~安土桃山時代)

  小田原城を拠点に相模や武蔵の広範囲を治めていた北条氏は、最後まで秀吉に抵抗していた。歴史の教科書には、「秀吉の天下統一は小田原の北条氏を滅ぼした1590年に完成した」と載っている。

 秀吉は水陸15万の大群をひきいて小田原城を包囲。本陣のための城を築いた。一夜のうちに完成させて敵側をびっくりさせたので「太閤一夜城」とも言われる。でも、実際には延4万人が動員され、80日間も費やしている。

 石垣がたくさん使われたので「石垣城」とも呼ばれた。今でもこの城址を石垣山と呼んでいる。

 秀吉はこの城に側室の淀君を連れてきていたし、利休は茶会を開き、能楽者は能を演じていた。天皇の勅使も訪れている。緊迫感のある戦場の城という感じはしない。

 この石垣城址は、横浜住民の私にすれば地元みたいなもの。何度か行ったことがある。今は崩れかかった石垣や本丸跡、天守台跡など残るだけだが、歩いてみるとその広さを実感する。


南曲輪から西曲輪への道
野面積みの石垣だ 

本丸跡 

天守台跡 

  陥落した小田原城は、江戸時代には徳川家康のものになった。規模は北条の城より小さくなったが、大久保氏や稲葉氏など譜代大名が城主になっている。箱根の関所や東海道を控えていたこともあり、徳川家にとっては重要な城であった。

 明治3年の廃城令で廃城するが、昭和35(1960)年に復興した。

 だから今見ている城(左)は、北条時代のものでもないし、江戸時代のものでもない。鉄筋コンクリート製だ。


 ところで、信長と秀吉が天下を握った時代を「安土桃山時代」という。安土は分かるが、桃山の意味がよくわからない。桃山城があったのだろうと漠然と思っていたが、そうでないことがわかった。秀吉晩年の居城だった伏見城は、1619年に廃城。その伏見城跡地に桃の木を植えたので、桃山時代と名付けたそうだ。史実とかけ離れた命名にびっくりしてしまう。

 秀吉は1592年に、伏見の指月に築城。ところがこの城が大地震で倒壊、すぐに少し離れた木幡山に築城した。5層の望楼型天守閣をそなえた豪華なものだったという。完成まもないこの城で、秀吉は亡くなった。その後は、家康のものになった。

 これほど由緒ある伏見城だが、廃城されたこともあり名残がない。石碑ぐらい立っているかもしれないが、探す時間がなかった。木幡山伏見城の本丸跡に、明治天皇の伏見桃山御陵が作られた。というわけで、勝手には歩き回れない。数年前の伏見城の遺跡巡りは、はからずも御陵巡りになってしまった。長い石段を上り詰めたところに、御陵はあった。本丸跡だから高い所にあるのだなと納得した。

 
長い石段を登ってたどり着いた
明治天皇伏見桃山御陵

伏見城公園に模擬伏見城が
作られている 
 
こんなに立派な石碑があると
本物だと間違ってしまう


 伏見桃山城と名のつくおもちゃのような城があると聞き、2012年春に行ってみた。もともとは城の形をしたキャッスルランドという遊園地だったが、閉園することになった。閉園時に京都市が城をもらい、今は市民の憩いの場になっている。満開の桜の下で楽しんでいる人が大勢いた。ちなみにこの城は模擬天守閣で史跡の価値はない。

 国内統一をなしとげた秀吉は、中国の明を征服するために、足がかりとして朝鮮に出兵した。1592年の文禄の役では、今のソウルを占領し明の近くまで攻め込んだが、民衆の抵抗にあい撤退。2度目の侵攻は、1597年の慶長の役

 はじめて韓国に行ったときに、秀吉軍による蛮行をさんざん聞かされたものだ。そのあと何度か訪れたときは、ガイドは何も言わなくなった。気持ちよく買い物でもしてもらった方がいいと方針を変えたのだろう。

名護屋城址  朝鮮侵略の基地として作られたのが、肥前名護屋城だ。日本史ウオーキングを始めたばかりの2003年。弥生時代の吉野ヶ里遺跡見学のついでに、同じ佐賀県鎮西町にある名護屋城址まで足を延ばした。

 約10年前の資料や写真が、今頃になって役にたった。このときは、字が違うとはいえ「なごや城」が九州の地にあることなど全く知らなかった。

 全国の大名が集まったので、城のまわりに120もの陣屋があったというが、城址(左は博物館のパンフレット)だけでも広い。辺境にあるこの地が発展しなかったことが、史跡としては幸いだった。建物こそないが、石垣や礎石は残っている。


 伊達政宗が作った大手門は、のちに仙台城の大手門に移築したという説明がついていた。仙台育ちの私だが、空襲で焼けてしまったので写真でしか見ていない大手門。仙台から遠く離れた佐賀の地で、思わぬつながりを知って嬉しかった。


広々とした名護屋城址 

天守台からの眺めも抜群だ 
 
京都の豊国神社近くにある耳塚


 朝鮮や明を征服しようとした秀吉の野望は、彼が病死したことで絶たれたことになる。全軍が引き上げた。結果的には韓国の人に怨念を残し、負の遺産ばかりが残った。

 京都の方広寺や豊国神社の近くに、大きな耳塚(鼻塚)がある。手柄の証拠に耳や鼻を切り取って秀吉に送った。これを埋めたものという。供養しているというが、この中に耳や鼻が埋まっていると思うと気持ちの良いものではない。

 醍醐寺の桜 4回に渡って書いてきた秀吉の項をこれで終わりにする。最後が耳塚ではあまりに悲しいので、死の4ヶ月前に催した「醍醐の花見」で締めにしたい。

 2012年春の京都行きは、ちょうど桜の時期だった。「醍醐の花見の現場を見たい」と、醍醐寺に行った。受付で聞いたところ、花見をした場所はずっと奥で今は公開していない。未練がましく奥の柵まで行ってみたが、それらしき桜はなかった。

左写真は、醍醐寺の入口で咲き誇っていたしだれ桜。醍醐の花見の桜の種類ではないそうだ。     (2012年9月23日 記)


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