日本史ウオーキング

  56回 関ヶ原の戦い(戦国~安土桃山時代)

 55回は、1598年8月の豊臣秀吉の死で終わった。となれば次は関ヶ原の戦いである。秀吉の遺命で、徳川家康は伏見城に、前田利家は大坂城に入った。

 1600年6月10日、家康は会津の上杉景勝を討つために、伏見城を出発した。家康の留守をねらって、石田三成は五大老の毛利輝元を盟主にして、反家康の武将を集めた。

 7月、三成は伏見城を攻撃。関ヶ原の戦いの前哨戦・伏見城の戦いである。伏見城の留守を守っていた鳥居元忠は、13日間の攻防の末、討ち死。この時の鳥居元忠の戦いぶりは「三河武士の鑑」として、後世まで語り継がれている。

 この時に血で染まった床板は、京都の養源院などに「血天井」として残されている。養源院には行ったことがあるが、日本史ウオーキングを始める前だったので、血天井は覚えていない。次はしっかりと見てこようと思う。

 一方、上杉討伐の家康軍は、7月24日、小山(栃木県小山市)に着いた。ここで伏見城が攻撃されたことを知る。翌日、武将たちを集めて軍議を開いた。有名な小山評定である。軍議の結果、会津には向かわず西に引き返すことにした。小山市中央町に「小山評定跡」の石碑があると知人から聞いたが、行ったことはない。

 この項を最初に書いた2013年2月時点では、小山評定の跡地を見ていなかったが、9月に行ってきた。その様子はこの項の一番下(茶色の字の部分)に付け足した。

 JRの切符 JR東海道線「関ヶ原」(左)の駅に降り立ったのは、2010年10月。この時は、3日間で桶狭間・長篠・岐阜・犬山・名古屋など戦国時代の史跡を欲張って回った。

 関ヶ原見学に割ける時間は半日しかなかったが、事前に頼んでおいたガイドのおかげで、主な史跡をめぐることができた。

 関ヶ原は、1600年の天下分け目の決戦場になったばかりか、壬申の乱で大海人皇子が陣を置いたところ、勝利した天武天皇(大海人皇子)が不破関を置いた所でもある。

ヤギ牧場 しかし、今の関ヶ原町は、なんとものんびりした町だ。史跡があるために開発から遅れたのか、開発から取り残されたために史跡が残っているのか。

 武将が陣地を置いた山や丘の麓には、田が広がっている。ほとんどが休耕田だ。ガイドのHさんは、町営のヤギ牧場(左)を指しながら「耕作していない田を雑草から守るために、ヤギを飼っているんですよ」と説明してくれた。



 下の地図は、関ヶ原町の「歴史民族資料館」でもらったパンフレットの一部。決戦の場はもっと広いが、私たちが案内してもらったスポットは、この地図に入っている。

 関ヶ原駅(地図の①)で待っていてくれたHさんと一緒に、まず「歴史民族資料館」に行った。甲冑・火縄銃・合戦図屏風などが展示してある。ひときわ印象に残ったのは、関ヶ原での両軍の動きを実況していたことだ。テレビのサッカー試合を見ているような、ドキドキワクワクの合戦気分が味わえた。お見逃しなく。

地図


 地図の赤い数字順に、案内してもらった。道順に沿っている数字なので、合戦の経過を現しているわけではない。後先が滅茶苦茶だが、訪問順に書いていこうと思う。ガイドの説明があったればこそ、単なる石碑も生きてくるというものだ。

首実検 地図の②には、「家康最後陣地」という石碑が立っている。関ヶ原の戦いは、朝の8時頃に始まり、午後2時ころには勝負がついた。天下分け目の決戦という割には、約6時間の戦いだった。最初は桃配山(上の地図で言うと関ヶ原駅の斜め右下)に陣地をとっていた家康は、午前11時頃には、激戦地に近い②の地に移動した。勝利が決まった後に、敵の武将の首実検(左)も行った。

 地図の③には、「決戦地」という石碑がある。東軍と西軍が最後まで戦った最大の激戦地。徳川家の葵の紋と、石田三成の「大一大万大吉」の紋の旗が決戦地を表わしている。三成の紋は、「万民が一人のため一人が万民のために尽くせば、太平の世が訪れる」という意味。「三成の思いは叶わなかったのだなあ」と、敗者だけに少し同情する。

 地図の④は、石田三成の陣跡の笹尾山。竹矢来の前に島左近、中間に蒲生郷舎(さといえ)を配置し、三成は山頂で指揮をとっていた。198mの笹尾山の頂に立つと、戦場が一望できる。

徳川家康陣跡 決戦地  石田三成陣跡

地図の②は家康最後の陣地
桃配山からここに移動した 
 
地図の③は東軍と西軍の
最大の激戦地
 
地図の④は石田三成の陣地
笹尾山


 地図の⑤は島津義弘陣跡。西軍の敗北が決まった時に、島津隊は、敵中突破をはかった。残った兵士はわずか80名ぐらい。犠牲は大きかったが、薩摩武士の勇猛さが語り草になった。
 

 地図の⑥は「開戦地」。1600年9月15日。東軍の先鋒・福島正則は、西軍の宇喜多秀家の隊に攻撃し戦いが始まった。小西行長は開戦と同時に、狼煙をあげて戦いが始まったことを西軍に知らせた。

 地図の⑦は小西行長陣跡。キリシタン大名だった小西行長は自害せず、京都の六条河原で斬首された。三成も同じ場所で斬首。

島津義弘陣跡 開戦地 小西行長陣跡
 
地図の⑤は島津義弘陣跡
敵中突破で名をはせた
 
地図の⑥は開戦地。午前8時、
福島正則が宇喜多隊に攻撃し
戦いが始まった

地図の⑦は小西行長陣跡
キリシタン大名だったので
自害 しなかった


 関ヶ原の戦いに参戦した東軍の武将は、徳川家康・黒田長政・福島正則・井伊直政・細川忠興・藤堂高虎・本多忠勝・加藤嘉明・織田有楽・山内一豊など。

 西軍は、石田三成・宇喜多秀家・島津義弘・大谷吉継・小西行長・島左近・蒲生郷舎など。

 東軍は75,000、西軍は84,000と力は伯仲していた。明治政府の軍事顧問だったドイツ人が、関ヶ原の陣形図を見て、「西軍の勝利だ」と言ったという。西軍の陣形は、東軍よりはるかに良かったらしい。

松尾山 ところが、松尾山(上の地図で言うと左斜め下)で戦況を見守っていた小早川秀秋が、正午頃に東軍への寝返りを決断。大軍を引き連れて大谷隊に突撃した。小早川秀秋は秀吉の正妻・北政所の甥。それだけに彼の裏切りには驚く。もしこの寝返りがなかったならば、家康の勝利はなかったかもしれない。

 松尾山(左)は293mとそれなりに高い山だ。行く時間がなかったが、笹尾山からよく見えた。このように陣跡には石碑や幟旗が立っているので、時間さえあれば自分たちだけの散策も可能だ。でも、シニアガイドと一緒の散策は、世間話なども交えて楽しかった。

 戦国時代は「義」が「利」に優っていたと思いたいが、ほとんどの武士は「利」に傾いている。今の日本の政局にはうんざりしてしまうが、ほとんどの人は勝ちそうな党に鞍替えしている。秀吉子飼いの武将のほとんどが、東軍に入ったのも、小早川秀秋が寝返ったのも、三成憎しだけではないと思う。家康についた方が得だと思ったからに違いない。

 日本史ウオーキングをしていると、「過去も現在も、特に人間のありようは同じだな」と思う場面に、何度も遭遇した。反省もなしに、バカなことを繰り返している。ある意味、面白い。(2013年2月9日 記)

 結果的に関ヶ原の戦いの勝利に結びついた「小山評定」は、今の栃木県小山市で行われた。小山には高校時代の友人が住んでいる。「石碑しか建ってないのよ」と言うけれど、今までの日本史ウオーキングもほとんどが石碑だけだ。「そこの場に立つだけでいいのよ」と言って、先月、案内してもらった。

 ひとつは市役所の敷地内に、もうひとつは隣接する須賀神社の境内に建っていた。家康らは、須賀神社で戦勝祈願をしたと言われる。


市役所の一画に
説明と石碑が建っている

 
 
市役所に隣接する
須賀神社の石碑

 
市役所や須賀神社に面している
小山評定通り


 1600年7月24日に小山に着くや、石田三成が挙兵したことを知る。「北上して上杉を討つか、戻って三成を討つか」の軍議が行われた。石碑には「三間四方の仮御殿を作って7月25日に軍議を開いた」とある。急いで結論を出さねばならない時に御殿を作ったのかなあと思うが、そう書いてあるから信じることにしよう。

 参加者は、徳川家康・徳川秀忠・本多忠勝・本多正信・井伊直政・福島正則・山内一豊・黒田長政・浅野幸長・細川忠興・加藤嘉明・蜂須賀志鎮。いずれもそうそうたる武将である。 (2013年10月9日 記)


感想や間違いをお寄せ下さいね→
次(大坂冬の陣・夏の陣)へ
日本史ウオーキング1へ

ホームへ