日本史ウオーキング
   57回 大坂冬の陣・夏の陣(江戸時代)

大坂冬の陣は慶長19(1614)年、夏の陣は慶長20(1615)年。あわせて大坂の陣と言う。徳川家が、豊臣家を完全に滅ぼした戦いである。これ以後、江戸末期まで内戦もなく、外国との戦いもなかった。長い戦国時代の終わりを告げる戦いでもあった。

駿府城家康は、1603年に征夷大将軍に就任し江戸幕府を開いたが、2年後の1605年に、息子の秀忠に将軍職を譲った。自分は江戸を離れ、駿府城(左)に隠居してしまった。

「将軍職は世襲だよ」を世間に認めさせるためとはいえ、やっと廻ってきた天下人の地位を2年で下りてしまった。織田家や豊臣家の没落を見てきた家康は、形だけでも息子に譲りたかったのだろう。長期政権確立を目指す英断というほかはない。

関ヶ原の戦い後、豊臣家の所領は摂津・河内・和泉のわずか65万石に削られてしまった。外様の大藩より少ない石高である。

それでも大坂城にいる豊臣秀頼の存在は気がかりだ。自分が生きている間に、気がかりな存在を抹殺してしまおうと考えたのも無理もない。結果的には、大坂夏の陣の約1年後、1616年に家康は亡くなっている。

国家安康の文字戦いの口実にされたのは、方広寺大仏殿の鐘の「国家安康・君臣豊楽」の銘(左)。この写真は、2012年4月に撮ってきた。分かりやすいように、白い囲みがある。文化財にこんなことをしてもいいのかなあと思う。

もともと方広寺は、秀吉が奈良の大仏に勝るものをと京都に建立したが、1596年に地震で倒壊。秀吉の死後、息子の秀頼が再建に着手した。大仏殿と鐘が完成したのは1614年4月。

完成の数か月後に、秀頼や淀君が住む大阪城が攻められている。豊臣家を滅ぼす口実を探していた家康にとって、この鐘はラッキーチャンスになったと言える。

「国家安康」は普通に使う言葉だが、家康を分断していると難癖をつけ、「君臣豊楽」も珍しい熟語ではないが、豊臣が楽しむ意だと難癖をつけた。

この鐘銘にケチをつけたのは、金地院崇伝という臨済宗の僧。「黒衣の宰相」と言われた人物だ。


豊国神社東山区大和大路通りにある方広寺は、この銘を見たいがために歴史好きの人は訪れるが、観光スポットではない。

少し分かりにくいので、隣接する豊国神社を目安に行くといい。私もまず目に入ったのは豊国神社(左)だった。唐門は国宝で、伏見城から移されたという。

秀吉はここから近い阿弥陀ヶ峰に葬られた。麓には立派な廟も完成したが、徳川の時代に取り壊された。秀吉を思い起こさせるものは、いっさい排除してしまった。だからこそ、江戸の平和が保たれたのかもしれない。豊国神社が再建されたのは、明治13年のことである。

方広寺付近を歩いていたら、「大仏殿石垣」を見つけた。ガイドブックには載っていないが、これぞ当時の遺構にちがいない。秀吉の威光を排除しようにも、こんな大石は動かすのさえ難儀だったのだろう。

鐘楼は明治17年の建立。時代を運命づけたこの鐘は、江戸時代はどこに保存してあったのだろう。聞く人もいなかったので、疑問のままだ。

大仏殿の石垣 鐘楼 鐘
 
目立たない所に残っている
大仏殿の石垣

 
明治17年建立の鐘楼
曰くつきの鐘がある

 
曰くつきの銘には
白い囲みがある


秀頼自刃の碑大阪城に初めて行ったのは、まだ20代の頃。当時は「大坂城といえば秀吉」と思い込んでいたので、秀吉の城の再建だと思い込んでいた。

その後何度か訪れるうちに、今ある城は昭和6年の再建、豊臣の城と徳川の城の折衷だと分かった。「今、みなさんが目にする遺構には、秀吉時代のものは一切ありません。秀吉の城に10mぐらい盛り土をして、新しく縄張りしたのです。発掘調査で分かっています」と、ガイドが強調した。

これでは、大坂の陣のイメージが全く湧いてこない。日本史ウオーキングとうたっている限りは、その痕跡を見つけたいものだと、2011年4月、数度目になる大阪城に寄ってみた。

山里丸跡で、大阪市が建立した石碑を見つけた。「秀頼と淀殿は山里丸の櫓にひそみ自害したと、多くの記録が伝えています。それにちなみ、記念碑を建てました」の説明がついていた。花も飾ってあり、ペットボトルが何本もお供えしてあった。豊臣家は、いまだに愛されているようだ。
                                (2013年5月9日 記)


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