日本史ウオーキング
 

  58回 河川を改造した江戸の町 その1 (江戸時代)


1590年に天下を取った豊臣秀吉は、徳川家康に関東一円の広大な所領を与えた。関東は今でこそ中心だが、当時ば辺境の地である。家康は、秀吉に支配されている身。命令されれば、その地に行くしかなかった。

15世紀の地図当時の江戸の地形は、江戸氏や太田道灌が城を築いた頃とあまり変わらず、今の皇居付近まで海水が入り込んでいた(左)。葦や萱が茂る湿地が多かった。道灌が建てた城は、徳川一族が住むにはあまりにも小さい。

こんなこともあって、拠点を小田原にするか鎌倉にするか江戸にするかで迷ったらしい。でも家康は「改造すれば素晴らしい地になる」と見込んで、江戸に決めた。

18世紀の江戸は、100万人を超えるまで発展した。世界で、もっとも大きい町。大江戸に続く大東京は、家康の先見の明があったればこそだ。

左は、「水の東京を歩く(別冊太陽) 平凡社発行」をコピーさせてもらった。15世紀半ばの江戸は、日比谷まで海が入りこみ、江戸前島に囲まれた内海は日比谷入江と呼ばれていた。和田倉や将門の首塚は海辺である。


江戸時代は水路が縦横に通っていたと聞いても、今の都心には神田川と日本橋川があるだけだ。ほとんどの水路は暗渠になり、日本橋川の上は首都高速道路で覆われている。神田川だけは、かろうじて川の風情を残している。もし暗渠になっていたら、南こうせつの「神田川」は生まれなかったろう。

神田川の源流「日本の歴史を知って現代を考察したい」と、目的だけは高い志を持って日本史ウオーキングをしている。大坂夏の陣の項が終わったので、次は江戸時代。江戸時代となれば、史跡のほとんどがおひざ元。気楽なウオーキングができそうだ。

家康は埋め立てと河川の付け替えで、町を広げていった。河川の流れを変える改造ってどんなものだったのだろう。改造の片鱗でも探したいと、日本橋川、神田川、隅田川の川辺を歩いてみることにした。

神田川の源流(左)は、三鷹市の井の頭公園にある。そばには「ここが神田川の源流です。神田川は善福寺川と妙正寺川と合流して隅田川に注いでいます」の木製説明版がある。たくさんの人で賑わている公園も、この周辺だけはひっそりとしていた。



江戸初期の地図上の地図にも左の地図にも平川の名がある。1620年つまり江戸時代初期の左地図も、「水の東京を歩く(別冊太陽) 平凡社発行」をコピーさせてもらった。

平川は神田川の元の名前である。今は平川という川はないが、皇居のお濠「平川濠」や「平川橋」や「平川門」にその名前をとどめている。

江戸に入った家康は、飲料水を確保するために、平川を改修して神田上水を整備した。この改修で、井の頭池を出て善福寺川と妙正寺川と合流する上流は、ほぼ現在の姿になった。

神田上水は、本流から目白で分かれて小石川や本郷に水を供給。のちに神田台に水道橋ができて、日本橋まで供給した。

2代将軍秀忠の時に、平川を天然の濠にするために、小石川から南に流れていた川を東に流す工事を行った。東に流れるようになった平川は、神田川となって隅田川に繋がった。神田山を掘って作った川なので、神田川と呼ばれるようになった。

一方、平川の元の流れは切り離されて江戸城の濠になっていく。


江戸時代の初期に、このような土木工事が行われたことに驚く。江戸城の守りを固める、洪水を防ぐ、飲料水を得る・・などいろいろな理由はあったにせよ、大改造を考えた家康の着想に舌を巻いてしまう。それを成し遂げる技術者集団がいたことにも驚く。

神田川と日本橋川神田川と並ぶ日本橋川は、秀忠の時に江戸城の外堀として整備された人工河川である。4.8qしかない。だから日本橋川の川べり散策は距離的にはたいしたことはないが、そもそも散歩するように整備されていないから、心地よいものではなかった。川面が開けるのは日本橋水門から隅田川にいたるわずか500mほどだ。

とは言いながらも、神田川と日本橋川が分かれる地点を見つけたときは嬉しかった。写真は、小石川橋の上から撮った。右が日本橋川。左が神田川。大改造の名残は、ここで見られる。


日本橋川沿いを散策した時に橋はすべて写真に収めたが、全部を載せても面白くないので、次の3つにとどめる。

堀留橋 一ツ橋 常盤橋
 
堀留橋
神田川を開いた時に
分流点から堀留橋の区間が
埋め立てられた


江戸城の外郭門「一橋御門」があった
御三卿のひとつ「一橋家」は
この門内に邸があった


 
上部に見えるのが
常盤橋
外堀だった名残の石垣が残っている


今の物流手段は、トラック・鉄道・飛行機が主流だが、江戸時代はもちろんのこと、昭和初期までは舟運も盛んだった。日本橋川は、全国の物資が運び込まれる水路でもあった。川べりの町は非常に活気があったという。今も、小網町、小舟町などの地名がある。西河岸橋、俎橋などの橋名も残っている。魚市場も、関東大震災までは日本橋の側にあった。

日本橋は江戸時代は五街道の起点。江戸時代の始まりと時を同じくして、1603年に架けられた。浮世絵などにも描かれるお江戸の中心地。今も道路元標がある。○○まで××qは、ここからの距離だ。ちなみに、今の日本橋は明治44(1911)年に完成。最後の将軍・徳川慶喜揮毫による「日本橋」の字が彫ってある。

魚市場跡  日本橋と高速道路 道路元標

 日本橋のすぐ側の川べりに
魚市場があった
石碑が建っている


 日本橋川はこのように
首都高速道路で覆われている
でもこの角度で見る日本橋と道路は
それなりに美しい

 
江戸時代は
五街道の起点だった日本橋
今は道路元標の地


川べりを歩いた後に、日本橋川と神田川のクルージングをしてきた。長くなるのでクルージングの記事は、河川を改造した江戸の町その2までお待ちいただきたい。周囲は当然ながら現代の東京だが、ところどころに江戸の面影が残っている。   (2013年12月9日 記)


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