日本史ウオーキング

  7. 登呂遺跡(弥生時代)
 

 吉野ヶ里が発見される前の教科書では、静岡市の登呂遺跡(左)が、弥生時代を代表していた。連想ゲームで「弥生」と出たら、「登呂」と答えたくなる。

 戦争中の1943(昭和18)年に 軍需施設の工事中に発見され、本格的な調査が始まったのは、終戦後の1947(昭和22)年である。 1952年には、国の特別史跡に指定された。

 登呂遺跡の発見は、敗戦でうちひしがれていた国民に、大きな希望を与えたらしい。当時の新聞を見ると喜びが伝わってくる。考古学者には、戦前の皇国史観の呪縛から解き放たれ、真の歴史研究が出来るチャンスでもあった。

 夫の実家に近いこともあって、子どもが小さい時に連れて行ったが、以後は訪れていない。長いこと教科書の載っていた登呂を省くわけにもいかない。ふと思いついて、3月末に行ってみた。同行者は日本史ウオーキングのメンバーではなく、運転手兼話し相手の夫である。登呂は、東名高速の静岡ICから近い。

 「弥生時代はBC500年頃から始まる」が、従来の定説だった。しかし、2002年5月に、国立歴史民族博物館が、「稲作伝来はBC1000年頃で、弥生時代の始まりは500年さかのぼる」と発表した。とすると、日本の古代史は大幅な修正をしなければならないが、反論を唱える学者もいて教科書の書き換えには、まだいたっていない。

 登呂遺跡はAD200年〜300年頃の遺跡。たとえ、弥生時代が500年さかのぼったとしても、弥生後期であることに変わりはない。

 弥生時代がいつから始まるかの議論は、稲作がいつ伝わったかの議論になる。登呂遺跡が注目されたのは、稲作をしていた証拠が数多く見つかったことだろう。

 250b×400bもの水田跡が見つかっている。訪れた3月末には、鴨が餌をついばんでいた(左)が、秋には古代米の赤米を収穫する。近辺に現在の水田がないので、勝手に交配する心配はなく、純粋な品種を保つことができるのだという。弥生時代の水田は、地下1bに保存されている。


 水田跡以外に、木製の田下駄や平鍬稲穂を摘み取る石包丁も見つかっている。左写真は、博物館のHPからの借用。右下が田下駄。隣が平鍬。

 登呂で多くの木製品が発見されたのは、水分が多い地形のためだ。考えてみると、ここは安倍川の扇状地。じめじめしていたであろうことは、容易に想像できる。

 湿度が高い地中だと腐りにくい。丸木船の舳先や、櫂も発掘された。この丸木船で、水田の見回りでもしたのだろうか。沼地で小魚でも捕ったのだろうか。

 
 水田跡が広い割には、住居跡は12しか見つかっていない。住居跡がこんなに少ないのは、なぜだろう。

 この復元住居(左)は、銅鏡に描かれた絵や家型埴輪などを参考にして、専門家が復元した。

 一般的に竪穴住居は地面を掘り下げて作るが、登呂の場合は湿地なので、地面を掘り下げると水が出る。掘るかわりに、周囲に土手を築いた。排水溝も作ってある。
 
 住居は、高さが5b、床面積は73u。内部の想像図(右上)が、説明板に描かれてあった。1家族5〜6人が生活していたと考えられている。

 高床倉庫跡は2つ発掘されたが、ふたつとも復元している(左)。説明板には倉庫の想像図(右)もあった。

 これも、銅鐸に描かれた絵などを参考にして復元した。高さは4.3b、床面積は10u。

 蓄えた米や籾をねずみの被害から守るために、柱の上部に、「ねずみ返し」という工夫もしてある。

 戦後の国民や考古学者に、希望を与えた登呂遺跡の発掘だったが、その後、続々と新しい遺跡が発掘され、工夫をこらした博物館が出来ている。それらと比べると、登呂遺跡は、どうしても見劣りがする。だからといって、最初に水田跡が発見された遺跡の価値が下がるわけではない。(2006年5月6日 記)

感想や間違いをお寄せ下さいね→
日本史ウオーキング1へ
次(大塚歳勝土遺跡)へ
ホームへ