日本史ウオーキング

   8. 大塚・歳勝土遺跡(弥生時代)

 私が住んでいる横浜市都筑区は、遺跡の宝庫である。一昔前は「横浜のチベット」と言われ、こんな例えは「チベットに失礼だ」と内心憤慨していた。東京に近い割には開発が遅れていたからのネーミングだが、40年ほど前にニュータウン計画が持ち上がり、今では当時の面影を見つけるのは難しい。

 開発中に、続々遺跡が見つかった。開発が遅れたからこんな残っているのか、元々人が住みやすい環境にあったのか。歴史博物館の人に聞いたことがある。「両方でしょうね」という答えだった。

 遺跡は息子の遊び場でもあり、拾ってきた土器のかけらや貝殻が玄関に転がっていたものだ。「掘れば遺跡」という状態だったので、監視の目が行き届かなかったのだろう。

 その中でもっとも有名なのが、大塚・歳勝土遺跡(右上・中学の歴史資料集から)である。私の家から徒歩で行ける距離にある。

 大塚遺跡の発掘は、1972(昭和47)年から1983(昭和58)年にかけてだが、私がこの地に居をかまえたのは1970年。まるで、発掘に合わせたかのような引越だった。何度か現場を訪れたが、航空写真のようには見えない。後に、学校の資料集やイギリスの百科事典・エンサイクロペディアにも掲載されたことを知り、誇らしく思ったものだ。

 大塚遺跡は、東西220b、南北130bの繭の形をした環濠集落である。110棟以上の竪穴住居が見つかり、そのうち80棟以上が弥生時代、およそ2000年前のもの。前項の登呂遺跡より少し古い遺跡だが、登呂に比べ住居跡の多さに驚く。

 同時期に使われていたのは20〜30棟。1棟に5人前後が住んだとして、集落の人口は100人から150人ではなかったかと推定されている。

 1983年の最後の発掘時に、遺跡に入って説明を受けた。当時、小学校のPTAで「郷土読本」を作っていたが、地域の歴史を調べようにも歴史博物館もない頃で、自分たちで取材するしかない。埋蔵文化財研究所の特別な配慮で、入れてもらったのだ。

 その時に印象に残ったことが2つある。地面が赤く焼けた住居跡がたくさんあった。煮炊きの跡ではなく、火災によるものらしい。もうひとつの驚きは、環濠が深いことだった。実際に入ってみたが、ちょっとやそっとでは、はい上がれない。上幅が4.5b、底辺部が2b、深さが2.5bもある。このふたつから、弥生時代は、収穫物や水田や用水などの財産を巡って、近隣のムラと争いがあったことが、実感できた。

 郷土読本作成の頃、大塚遺跡の発掘はほぼ終了していたが、まだあちこちで掘っていた。「実際に掘ってみると、縄文や弥生の人に近づけるかもしれないよ」と、文化財研究所のSさんに発掘を奨められた。正直言うと、たいして面白い作業ではなかった。土埃はたつし、暑さを遮る木もない。掘っても掘っても、土器のかけら1つ出ればいいほうだ。イヤになって、数回でやめた。

 上の写真の遺跡は、今は見ることが出来ない。歴博でもらった資料(左)を見ると、遺跡のほとんどが、道路や商業地やオフィスビルになったことがわかる。赤いペンで囲んだ部分だけが、残された。全体の3分の1にすぎない。

 環濠全形が発掘されたのは、全国でも大塚遺跡だけだ。にもかかわらず、開発優先になってしまったのは、惜しいと言えば惜しい。でも現代人の生活も大事だから、何とも言えない。

 地下鉄「センター北」近くに、横浜市歴史博物館と遺跡公園が完成したのは10年前。大塚遺跡があるからの施設だが、弥生時代だけでなく、横浜の通史も展示している。講演会や見学ツアーも主催しているし、土器づくりなども指導している。展示を見せるだけにとどまらない楽しい博物館だ。

 私には、大塚遺跡は珍しくもなんともないが、日本史ウオーキングの仲間・NちゃんとKちゃんには、見応えがあるかもしれない。ということで、4月16日に、博物館と遺跡公園に行ってみた。
 
 おりしも、博物館では、大塚・歳勝土遺跡国指定20周年、遺跡公園10周年記念の「弥生の人びとの眠る場所-方形周溝墓と環濠集落-」の企画展(6月25日まで)をやっていた。たまたま、その日は、学芸員の中川さんによるフロアレクチャーの1回目にあたり、ラッキーだった。弥生時代の服装・貫頭衣を着た中川さんは、分かりやすい語りで説明してくれた。

 大塚遺跡に隣接して、歳勝土遺跡がある。歳勝土(さいかちど)は、大塚の人達の墓地(左)だが、整然と並んだ方形周溝墓が、25も発掘された。四角い形で周囲に溝がある墓なので、方形周溝墓という。家長を真ん中に、溝内に近親者を葬った可能性が高いそうだ。

 環濠集落は3分の2が破壊されたが、周溝墓は、すべて地下に保存してある。そのうち一部は、芝を植えた状態で見学者に見せている。

 墓地と集落が一体になっていることで、当時の生活形態も垣間見ることができる貴重な遺跡だ。また登呂遺跡との比較になるが、登呂では墓地が見つかっていない。

 そのかわりと言ってはなんだが、ここ大塚・歳勝土遺跡には、稲作跡が見つかっていない。Kちゃんが「水田はどこにあったのですか」と質問した。中川さんは「うあー、痛いところをつかれました。実は水田の跡は見つかっていません」。

 大塚・歳勝土遺跡は高台にあるが、下には鶴見川支流の早渕川が流れている。「早渕川の周辺か、集落のはずれの谷戸で、米を作っていたのではないか」と、中川さんは推測してくれた。


 その後に、遺跡公園まで足を延ばした。下の写真で雰囲気を味わって欲しい。
竪穴住居7棟と高床式倉庫1棟が復元されている。住居の中に自由に入ることが出来る。夏休みにはこの中で寝泊まりする催しもある。実際の遺跡は、もっと地下にある。 環濠には、柵も作られていた。この写真では、溝は深いようには見えないが、深さは2.5bもある。入口には橋が架けられていた。 発掘調査時の姿を再生している。再生方法は、@合成ゴムと石膏で表面の型をとる。Aガラス繊維強化樹脂セメントで遺構面を再生B保護樹脂の塗布を行う。
(2006年5月11日 記)
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