日本史ウオーキング

 9. 吉野ヶ里遺跡(弥生時代)

 弥生時代を取り上げるのは、今回で4回目。食傷気味だが、どの教科書にも載っている吉野ヶ里遺跡を、省くわけにはいかない。日本史ウオーキングで、吉野ヶ里を訪れたのは、2003年10月19日。JRの「吉野ヶ里公園駅」で下車すると、満開のコスモスが歓迎してくれた。遺跡までの道の両側には、ずっとコスモスの花がゆらいでいた。

 吉野ヶ里遺跡は、佐賀県の工業団地造成中に見つかり、1988年に発掘の成果が報じられるや、2ヶ月半の特別見学期間中に、約105万人が訪れたという。ちなみに佐賀県の人口は約88万人。それだけ、日本中の関心を集めた遺跡でもあった。

 1991年には、国の特別史跡に指定され、2001年には歴史公園としてオープンした。次々に建物が復元され、展示室、体験工房、弥生の大野などが整備されている。

 左は、歴史公園の入口に立つ「ひみか」ちゃん。「ひ」は東背振村、「み」は三田川町、「か」は神崎町の頭文字であって、「ひみこ」を真似たものではないと、強調している。遺跡は、この3つの町村で囲まれている。

 義務教育を終えた人なら、「邪馬台国」と「卑弥呼」は、知っている。その邪馬台国と卑弥呼を記した中国の歴史書「魏志倭人伝」には、邪馬台国について、次のような記述がある。

 「宮室楼観 城柵厳設 常有人持兵守衛 」「収租賦有邸閣 國國有市交易有無」。わかりやすい漢文なので、意味はおわかりと思う。「宮室」は北内郭、「楼観」は物見櫓、「城柵」は環濠、「邸閣」は大型の倉庫を指すと考えられる。

 記述通りの建物跡が吉野ヶ里から発見されたうえに、吉野ヶ里の最盛期は紀元3世紀頃で、卑弥呼が活躍した時代と一致する。「これぞ、邪馬台国!」の気持ちもわからないではないが、現在では、吉野ヶ里遺跡は邪馬台国ではないという学者が、大勢を占めているそうだ。

 私は、1990年にも夫と訪ねたが、大発見直後のその頃は、邪馬台国と決まったかのような雰囲気で、卑弥呼の里、卑弥呼まんじゅうの言葉が一人歩きしていた。13年後の再訪時には、卑弥呼の里の言葉は消えていた。国の特別史跡に指定されたからには、住民の希望や推定だけで、邪馬台国を名乗るわけにはいかないからだろう。

 歴史公園の総面積は約40万uと、とてつもなく広い。女性ガイドと一緒に回ったから良かったものの、ガイド無しでは、迷ってしまいそうだ。「南内郭」「北内郭」「甕棺墓列」「北墳丘墓」「中のムラ」などを順次、てねいに説明してくれた。すべてを載せるスペースはないので、数枚の写真で感じ取って欲しい。

ムラの全景。弥生人の服装をして、火を起こす、石臼を挽くなどの実演をしていた。 吉野ヶ里の中で最も重要な場所。大きな建物は主祭殿。まつりごとが行われていた。

 
物見櫓、柵、環濠で、厳重に守られていた。 鳥が数羽止まっている。鳥居の原型と考えられる。 甕棺の埋葬の様子。歴代の王が埋葬されていたらしい。

 吉野ヶ里遺跡には、弥生時代の初期・中期・後期すべての遺跡がある。最盛期は弥生時代後期(紀元1世紀から3世紀)だが、大きな環濠の中に、1,200人ぐらいが住んでいたと想像される。日本の中でも、群を抜いて大規模な集落だった。邪馬台国でなくても、それに類したクニのひとつではあった。

 ところが、3世紀の終わりから4世紀始めころに、吉野ヶ里集落は途絶えてしまった。どうやら、自分の意思で出て行ったらしい。時代は、個人が大きな富と権力を持つ古墳時代に移っていく。

 訪れた日・10月19日は、特別デーで、400円の入園料が無料。普段は中に入れない復元建物の内部に入ることができ、物見櫓にも登ることができた。スタンプラリーの質問に答えたら、特賞の佐賀ミカンが当たった。遺跡の周辺には、コスモスが咲き、古代米の稲が穂を垂れていた。行楽という面から見ると、またとない良き日だったが、弥生人になりきるには、あまりにも明るかった。
(2006年7月22日 記)

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