ポーランド・チェコの旅 2
ワルシャワの旧市街

2003年8月10日(日)続き

 昼は、ショパンの生家に隣接するレストラン「柳の下」で、ポーランド料理を食べた。

 餃子みたいなピエロギ(左)、ライ麦を発酵させた酸味あるスープ・ジューレック、ロールキャベツのようなゴヴォンブキ(右)、ポテト、赤ビーツ、アップルパイ。料理の紹介は今回だけにする。昼夜食とも、スープ・メイン・添えの野菜・デザートというコース料理だった。

 午後は、市内に戻り、主なスポットを回った。ワルシャワは、16世紀末にクラコフ(ポーランド・チェコの旅1の地図参照)から遷都以来、首都として400年もの歴史がある。まず旧市街の広場へ。客待ちしている馬車、花屋、カフェ、土産物屋など、西ヨーロッパの旧市街の広場と同じようなたたずまいだ。
 

 














 3枚の写真は、いずれも旧市街のスナップ。左の傘を持った人形は何を表しているのわからないが、なにやら面白い。

 第2次世界大戦は、1939年9月のナチによるワルシャワ侵攻で火蓋を切った。歴史に残る日に、その場に居合わせた方と、ネットで知り合った。当時6歳だった上田博章少年は、父上がポーランドの大使館付き武官だったので、家族でワルシャワに滞在していた

 上田さん母子は、命からがらシベリア経由で帰国したが、その様子が写真いりで新聞に大きく載っている。変色して読みにくいが、興味のある方はどうぞ。「独機大編隊の空襲 その度に地下室籠城 爆弾下のワルソーを脱出」と見出しにある。

 ワルシャワ空襲の経験が、父上が学童疎開を東條英機に勧めるきっかけになったのだが、詳しくは、上田さんのHP「疎開絵日記」をごらんいただきたい。

 このときの爆撃や、戦争末期にナチに抵抗した戦いで、市内の80%が破壊されたという。それにしては、旧市街の建物は、近代ビルではない。ゴシック・バロック風の建物がならび、中世の街並みを保っている。実は、戦後に復元した街並みなのだ。

 もう10年以上前になるが、NHKで復元作業や、市民の復元にかける情熱を放映していた。エヴァおばさんにその話をすると「そう!そう!私の母も作業に参加しました。壁のひびやゆがみまで、できるだけそのままにしたんですよ。お年寄りに聞いたり、資料を基にしてね」と、誇らしげな答えが返ってきた。

 私がポーランドで真っ先に思い出すのはキュリー夫人(1867年〜1934年)だ。小学生の時に偉人伝感想文の宿題があり、「キュリー夫人」を読んだ。今ならこんな完璧な人間は選ばない。破天荒な生き方をした人に惹かれるが、当時は、母であり妻でありながら、ノーベル物理学賞、化学賞を受賞したことに感銘を受けたのかもしれない。

 このキュリー夫人の生家が、博物館になって残っていた。(右写真)。入場する時間がないので、外観だけの見学だったが、それでもポーランド=キュリー夫人の思いこみを満足させるには充分だった。ここは旧市街から少し歩いた新市街にあるが、当時のままか、復元したのか聞きそびれた。いずれにしろ、ナチが爆撃する5年前に、彼女は亡くなっている。

 生家のそばに、銃を持った金色の像があった。(左写真)。銅像めぐりを始めた直後だったので、撮らずばなるまいと、近寄ってみた。由来らしきものはないが、前の缶にはコインが入っている。「泉にもコインを置くぐらいだから、像にも置くのか・・」と思いながら写真をパチリ。

 「写真を撮ったらチップをあげなきゃダメよ」と、ツアー仲間に言われてしまった。「え!あれ銅像じゃないの!人間なの?」とびっくりしながら、コインを入れにいった。それほど銅像そっくりだった。金色の塗料で皮膚を覆い、まったく動かないのもさぞ難行苦行だろう。社会主義時代には、こういう行為は禁止されていたかもしれない。

 10日の観光はまだまだ続くが、次回に。
(2004年9月15日 記)

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