ポーランド・チェコの旅 3
蜂起記念碑・ショパンの心臓

2003年8月10日(日)の続き2

 まだワルシャワ観光をしている。ワルシャワには、民族の抵抗を示す記念碑がやたら多い。過去に、他国から侵略を受けたことが何度もあるだけに、抵抗の碑も気合いが入っているように感じた。 












 左上は、ナチに迫害され、連行されるユダヤ人。ゲット-記念碑の一部である。

 右上のプレートには、「1944年1月28日に、102人のポーランド人が、ここでナチにより処刑された」と書いてある。3カ国語の説明がついている。

 右はワルシャワ蜂起記念碑の一部。記念館前の広場には、このような群像がいくつもあり、リアルだ。第2次世界大戦末期の1944年8月1日に、ナチの力が弱まっているとみた亡命ポーランド政府の指導で、市民が一斉に蜂起した。
 
 スターリンは、ポーランド主導の解放ではなく、ソ連軍による解放をもくろんでいたので、イギリスからポーランドを助けるように要請があったにもかかわらず、助けなかった。結局、ワルシャワは20万人もの犠牲者を出し、市街地の95%が破壊され、10月2日には降伏した。

 ソ連の影響下に入ることを避けるための蜂起でもあったが、結果的には、社会主義体制に組み入れられてしまった。この群像の完成は、1989年8月。ベルリンの壁崩壊後のことである。ソ連の衛星国だった時代には、ワルシャワ蜂起の記念碑など作れる状況ではなかった。

 この群像を見ただけでも、歴史に翻弄され続けたポーランド人の反骨精神が想像できる。
 
 次は、聖十字架教会を訪れた。ポーランドは、95%が信者というカトリックの国だ。十字架に磔にされたイエス像が、ちょっとした広場に架かっていたりする。教会内部は言うまでもない。世界的には若者の教会離れが進んでいると聞くが、ポーランドは例外らしい。現在のローマ法王・パウロ2世もポーランド出身である。

 たくさん見学したカトリック教会のなかでも、聖十字架教会は、特に印象に残っている。この教会の石柱に、ショパンの心臓が埋められているからだ。(左写真)。

 ショパン好きの友人に「心臓を保存している教会を見てきて」と頼まれたので、エヴァさんにしつこく聞いてしまった。

 「心臓って、どういう風に保存しているの?」「ショパンが死んだときに、胸を開いて心臓を取り出したことは確かなんです。ホルマリン液につけて保存しました。でも、この教会も爆撃を受けました。心臓を持ち出したことにはなっているけれど、誰も見ていないんですよ」と、正直な答えが返ってきた。爆撃されたけれど、心臓だけは奇跡的に無事だったなど言われるより、むしろ清々しい。

 それでもショパン崇拝者の参拝が絶えないという。ショパン没後すでに150年以上経つ。ショパンもモーツアルトも40歳前に亡くなっている。モーツアルトがどこに葬られているかさえ不明なのに比べ、ショパンがいかに愛され、尊敬されているか、わかるというものだ。

 市内観光最後は、ワジェンキ公園。王様の夏の宮殿に使われた場所が、今は市民に開放されている。そこでまたショパンの演奏を聴いた。柳の下に腰をかけたショパン像があり、その脇の四阿での演奏だ。2度も無料コンサートに出会えたのは、今日が日曜日だからだ。他の曜日にあたったならば、少なくとも無料の演奏はない。昼食のレストランも「柳の下」。ここの像も「柳の下」にある。柳の木の下で、名曲を作ったのかもしれない。真相は聞きぞびれた。

 ホテルチェックイン後の自由時間を利用して、目の前にある「文化科学宮殿」の展望台に登ってみた。37階、234b。他に高い建物がないので、中心部のほとんどが見える。

 科学アカデミーなどの研究所、映画館、コンベンションホール、コンサートホールなど部屋だけでも3288もある。もちろん、王はいない、大統領が住んでいるわけでもない。なぜ宮殿と呼ぶのかわからないが、宮殿とは似ても似つかぬ、権威主義丸出しの四角い建物だ。それもそのはず、1952年にスターリンが贈ったビルだという。

 旧市街をボランティアで復元するほど、美意識の高いワルシャワ市民が、この贈り物を喜ぶはずもなく、「ソビエトが建てたワルシャワの墓石」と呼んでいる。左は、ホテルの窓から撮った「墓石」。

 地下鉄や市電に乗ると、市民の生活に近づけるような気分になるものだ。乗ってみたかったが、明日からの観光に備えて遠出はやめた。右は地下鉄の入り口。

 マクドナルドや数店をのぞいただけでホテルに戻った。マクドナルドとコーラはここでも大人気。コーラとハンバーガーの組み合わせで5ズロチ。150円ほど。長い1日が終わった。
(2004年10月2日 記)



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