ロシアの旅10
 サンクトペテルブルグ その3

2008年7月12日(土)-10日目

 昼食後、ペテルゴーフという所にある夏の宮殿へ行った。北方戦争に勝利したピョートル大帝が大国ロシアに相応しい宮殿をと、パリのベルサイユを真似た大宮殿を建築。その後歴代の皇帝により磨きをかけられたが、第2次大戦でドイツ軍によって破壊された。今は修復されて世界遺産になっている。破壊された直後の写真や修復中の写真が廊下に飾ってあったが、よくもここまで修復したと感心してしまう。

 午前中に訪れたエカテリーナ宮殿とこんがらかってくるが、ここにも儀式の階段・ダンスの間・戴冠の間・大玉座の間・食堂・中国の間・肖像が368枚もある絵画の間など豪華な部屋が延々と続く。

 この宮殿をより有名にしているのは、涼しげな水を噴き上げている噴水だ。もともとピョートル大帝は海からテラス状に高くなる地形に注目し、水を活かした宮殿を作ろうとした。宮殿のテラス前にある大滝には、37体の金色像、64の噴水、142の水の吹き出し口がある。これらの水が中央の階段を通って運河や海に流れ込んでいる。

64の噴水と142の水の吹き出し口から出る水が涼しげな夏の宮殿。 ロマノフ王朝時代の貴族に変身した観光客。 宮殿内で見かけた結婚式カップル。旅の間に何十組ものカップルに会った。

 大宮殿の庭園は非常に広い。そのあちこちに、無数の噴水がある。「アダムの噴水」・「イブの噴水」・「太陽の噴水」以外に、傘に入ったら濡れてしまう「傘の噴水」など、いたずら噴水もある。この噴水は5月終わりから9月中旬までの夏の間だけ。

ここには、ロマノフ王朝時代の服装をした人がたくさん歩いていた。チップ稼ぎの人もいるが、観光客がその服装で楽しんでいる場合もある。若い子が京都で、舞妓さんに変身するのと同じようなものだ。

宮殿そばのレストランで夕食後、ホテルに戻るまで2時間もかかったが、キーロフの工場・キーロフの銅像・ナポレオン戦争に勝ったときの凱旋門など、ナターリャさんがていねいに説明してくれたので退屈しなかった。
                               <サンクトペテルブルグのプリバルチスカヤホテル泊>

7月13日(日)-11日目

今日は、事実上ロシアの旅の最後の日。主にエルミタージュ美術館を見学する。エルミタージュというのは、フランス語で隠居所とか隠れ屋という意味。きのう見学した宮殿の庭にも小さなエルミタージュがあった。

エルミタージュ美術館は、冬宮・小エルミタージュ・旧エルミタージュ・新エルミタージュとエルミタージュ劇場の5つの建物が廊下でつながっている。冬宮は歴代のロシア皇帝の住居。ロシア革命の時に、対岸のオーロラ号から発砲を受けた宮殿だ。ロシアバロック様式で緑の壁と白い柱に金色の装飾が映える。

ナターリャさんが入場券を買っている間に、宮殿広場のナポレオン戦争勝利を記念した凱旋門やアレキサンダー記念円柱を見た。

美術館に入るための長蛇の列 豪華な「大使の階段」 「ラファエロの回廊」の天井
マチス(この絵がエルミタージュの代表作) モネ セザンヌ

この美術館は、フラッシュを使わなければ撮影をしてもいい。ただしカメラ代は必要だ。うまく撮れないと思いながらも、有名な絵画をせっせと写した。鑑賞する態度としてはいかがなものかと、我ながら思わないでもない。

 ナターリャさんが2時間をかけて、効率よく名画を見せてくれた。なにしろ27万点も所蔵品がある。自分で回ったならば、お目当てを探すだけで疲れ切ってしまったに違いない。その後、1時間ほど自由にしてくれたので、前に戻って再度見て歩いた。

 「エルミタージュ美術館には絶対行ってみたい」と友人の多くが言っているが、敢えて行かなくてもいいのではと私は思った。ルーブル・メトロポリタン・プラドなどの総合的な美術館やピカソ・ゴッホ・マチス・レンブラント・ウフィッツイーなど専門の美術館を訪れたことがある。ブリティッシュ博物館・エジプト博物館では遺物の数々、トプカピ宮殿では、イスラム芸術を鑑賞した。そうした目から見ると、エルミタージュ美術館の展示物は、どれもが中途半端のように思えた。たとえばダ・ヴィンチは2点、ラファエロも2点しかない。ゴヤも1点しかない。

 でも日本にはこれだけの絵画を集めた美術館はない。そして飾ってある部屋が元の宮殿だから非常に豪華なのだ。訪れるに超したことはない。

 美術館内にあるカフェテリアで軽い昼食をとったあと、フリータイム。エルミタージュ美術館を極めたいと思う人はそのまま残ってもいいが、1組のご夫婦以外は美術館を出て、中心街のネフスキー通りなどを散策した。

 サンクトペテルブルグの街並みがきれいなのは、運河めぐりや車窓から見ているが、自分の足で自由に歩くのは初めてだ。美人でキュートな若い女性が目立つ。へそ出しルックもいる。みな垢抜けていて個性的な服装をしている。ソ連の頃は、食料品や家賃は安かったが、電化製品や洋服や靴は高かったという。当時の平均給与は120ルーブル(600円ぐらい)、家賃は10ルーブルなのに、良いブーツは100ルーブルもした。こんな状態だからオシャレ心が満たされることはなかったと思う。そんな中でもセンスを培っていたのかもしれない。

 寿司屋の看板も見かけた。ナターリャさんは「京都・富士山・桜・将軍という和食レストランが4つあります。寿司屋は50もあります」と言っていた。日本を連想させる言葉が、相変わらす富士山・桜・将軍・京都というのは寂しい。

繁華街のネフスキー通りは重厚な建物が並んでいる。 あか抜けた人がお茶を飲んでいるオープンカフェがたくさんある。 新興宗教が賑やかにしていた布教していた。

 街角では妙な宗教団体が踊りながら布教していた。ビラをもらったが、仏教・ヒンズー・イスラム・キリスト教ごちゃまぜらしい。日本でいえば銀座4丁目で、どんちゃん騒ぎをやっても、お咎めもない。自由になったのだなと他国ながら嬉しくなった。オープンカフェがあり、似顔絵描きがたくさんいる。西洋の街角とそっくりだ。

 帰国直後の朝日新聞に、バレリーナの草刈民代さんが、次のような主旨のコラムを書いていた。「6年ぶりにサンクトペテルブルグ来ているが、街はずいぶん様変わりした。今風のレストランがあり、愛想の良い人がたくさんいる。ダンサー達も身軽なのだ。動きのことではなく、背負っている物の重さが違うような気がする。時間の移り変わりをひしひしと感じずにはいられない」。 (2010年3月16日 記)

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