ロシアの旅

2008年7月3日(木)〜15日(水)


ロシアへの思い
クレムリンとトルストイの家博物館
スターリンビルと赤の広場
黄金の環
黄金の環とモスクワ
キジー島
ペテロザヴォーツクからサンクトペテルブルグへ
サンクトペテルブルグその1
サンクトペテルブルグその2
サンクトペテルブルグその3
サンクトペテルブルグその4

ロシアの旅1
 ロシアへの思い

2008年7月3日(木)-1日目

 今回もE旅行社を使っての旅。仲間は8組の夫婦ふくめ21名。いつものようにシニアばかりである。モスクワの空港でスーツケースを開けられる恐れがあるとか。後進国に行くわけでもないのに、ガムテープを要所に貼った。

11時40分(成田発)→JALで16時5分(モスクワのドモジェドボ空港着

機内食

 時差が5時間(サマータイム)あるので、フライト時間はおよそ9時間半。エコノミークラスの機内食を期待をしてはいけないのだが、冷めないようにとホットプレート(左)がついていたのは良かった。

モスクワの空港にはじめて降り立ったのは23年前。ヨーロッパ行き便の給油のためだった。電気が消えていて暗かった。窓外の白樺林に感激してカメラを向けたら「ニエット」と睨まれた。ドアが壊れたトイレのペーパーは、ゴワゴワしたものだった。

 こんな事を思い出したが、ペレストロイカから20年近く経た今は、そんなことはない。ただし入国審査に長蛇の列。JAL便の人数はあらかじめわかるのだから、係官を増やせば良いのにと思うのは、こちらの勝手かもしれない。

旅のルート

 やっと出国して、数日を共にする男性ガイドのスラヴァさんに会った。13日間で左地図のように、モスクワ近辺とサンクトペテルブルグ近辺の大まかに言うと2ヵ所回る。スラヴァさんはモスクワ近辺のガイドである。

 後で聞いたのだが孫がいる63歳の年金生活者。一人息子は外務省のフランス課に勤務。「フランス語はもちろん、日本語も私より上手」と、少し誇らしげだった。

ソ連崩壊後、物価特に食料品がどんどん上がっている。年金だけでは苦しい人が多く、スラヴァさんのように働く人が多いようだ。日本語が完璧なスラヴァさんは、引っ張りだこかもしれない。彼は、スターリン時代、ソ連崩壊、その後の変化をつぶさに体験している。そんな世代の人がガイドしてくれるのは、ありがたい。

ロシアに行きたいと思い15日間のツアーに申し込んだのは、7年前。期間が長いからか、催行しなかった。3度目の申し込みで少し短い旅が実現した。私は、海外旅行を「世界史を見つめる旅・人間を知る旅」と位置づけている。実際には物見遊山なので、えらそうなお題目をこれまで公言しなかったが、心の中では思っている。

そういう意味で、ロシアは是が非でも行かなければならない国だった。ソ連に関心をもった最初は、スターリン死亡を報じる記事とモスクワ市民が嘆き悲しんでいる顔写真だ。「首相が死んで、なぜこんなに悲しいの?スターリンは、よっぽどすばらしい指導者だったのかしら」と父母に聞いた。新聞の写真がソ連のプロバガンダと知るには幼すぎて、泣き叫ぶモスクワ市民の顔だけが刻み込まれた。スターリンの大虐殺を知ったのも、ずっと後のことだった。

大学に入ると、ソ連や中国の共産主義の素晴らしさを、口角泡を飛ばして語る先輩がたくさんいた。「仕事がデキル人とデキナイ人が同じ賃金なんてつまらないなあ」と心の中で思いながら、反論できなかった。

モスクワ周辺のガイドスラヴァさん

世界文学全集には、ロシアの作家がたくさん名を連ねていた。ドストエフスキー・トルストイ・ゴーリキー・ショーロフ・ツルゲーネフ・プーシキン・・。トルストイの「復活」「戦争と平和」「アンナカレーニナ」、ツルゲーネフの「初恋」など短編集は読んだが、他の作家は本のタイトルを知っているだけだ。ドストエフスキーの「罪と罰」を読み始めたが、終わらなかった。でも今は、トルストイよりドストエフスキーを愛読する人の方が多いという。左写真はトルストイの家博物館で学芸員とガイドのスラヴァさん。

ロシア民謡も大流行だった。「赤いサラファン」「カチューシャ」「ともしび」「ヴォルガの舟歌」「ステンカラージン」などなど。ダークダックスが歌うロシア民謡には、なぜか心が揺さぶられた。歌声喫茶のいちばん人気は、ロシア民謡だった。

ボリショイバレーやボリショイサーカスも洗練されていたし、アメリカとの宇宙競争でも目を見張るものがあった。最初に地球を飛び出したのはソ連のガガーリンだった。オリンピックの成績も素晴らしい。

「鉄のカーテン」と呼ばれて秘密めいているけれど、そして首脳達は苦虫をつぶしたような顔で「ニエット」を繰り返しているものの、ソ連はユートピア・理想的な国家なのだと思いこんでいた。

ユートピアでないらしいと思い始めたのは、ノーベル文学賞作家・ソルジェニーツインがスターリン批判をした罪でシベリアに送られた頃だ。彼は私が帰国した直後の8月に亡くなった。その後フルシチョフがスターリンを批判、チェルノブイルの原子力発電所の事故で、ソ連が科学的分野で相当遅れていることも分かった。

国旗

ゴルバチョフ登場によるペレストロイカ、その後のソ連崩壊の様子はお茶の間に流れた。鉄のカーテンを開かざるを得なくなり、ソ連の実態を全世界が知ることとなった。崩壊後の市民の姿は、食べる物も乏しく衣服も粗末でかわいそうに思えたが、今度の旅で確かめたところ、その時でも餓死者や凍死者など出なかったという。いつものごとく、マスコミは大げさだ。

ロマノフ王朝が倒れたのは、リアルタイムでは知らない。でも父母から亡命ロシア人の話を聞いたことがあり、最後の皇帝ニコライ2世は皇太子のときに日本に来ている。巡査が皇太子を斬りつけた大津事件の当事者でもある。そういう意味でロマノフ王朝もそう遠い話ではない。倒れてから100年にもならないのだ。ニコライ2世一家の骨を鑑定して、彼らのものと断定したのは記憶に新しい。

国章

今の国旗の白・青・赤の三色旗(左上)は1883年に制定された。ソ連時代は鎚と鎌の赤旗に変わったが、2000年に再び三色旗に。15世紀から皇室権力の象徴だった双頭の鷲の国章(左)も、ソ連時代は使われなかったが、2000年に復活。わずか100年の間に、行きつ戻りつの劇的な変遷をとげた国は、世界中にそうそうない。しかも影響力が大きい大国だ。「この目で見たいと言う思い」がやっと実現した。

話を元に戻す。入国審査と荷物受けとりに1時間半もかかり、バスは出発。沿道は白樺林に続き、菩提樹の並木が涼しげだ。道路は、新車や30年前の車で埋め尽くされている。日本車・ヨーロッパ車・アメ車となんでもありだ。日本では見かけなくなった路上故障の場面にも出くわした。

 車がどんどん増えるのにインフラが追いつかず、路上駐車も渋滞に拍車をかける。ソ連時代は、庶民が車を持っていなかったので渋滞など起きなかったという。結局ホテルに着いたのは、夜の8時を回っていた。

 この旅行記の仕上げをしている2009年10月の新聞に、モスクワの大学で教えている鳩山総理の長男が、交通渋滞の解消策を提言したという記事が載った。市当局もおおいに関心を示したそうだ。
                            <モスクワのコスモスホテル泊> (2009年11月2日記)


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