ロシアの旅2
 クレムリンとトルストイの家博物館

2008年7月4日(金)-2日目

ドゴール将軍

 ビュッフェの朝食後、9時にホテルを出発。1777室もあるマンモスホテルの正面に堂々と建っている銅像は、フランスのドゴール将軍(左)である。「なぜフランス人の銅像?」と聞いたところ、ガイドのスラヴァさんは「ドゴールはロシア人にも好かれているし、このホテルはフランス人が設計したから」と答えてくれた。

今日はモスクワの市内観光だ。まず最大の観光スポットのクレムリンに向かった。この時まで知らなかったのだが、クレムリンは城塞という一般名詞。「クレムリンでは・・」というニュースを耳にしていたので、政治の中枢を表す機関だと思いこんでいた。

 クレムリンは、2235bもの赤い城壁(左下)で囲まれ、総面積が26万平方キロもある。1156年にユーリー・ドルゴルーキー公が木造の城塞を作ったに始まる。ロシア正教の大本山などたくさんの聖堂がある一方、政治や軍事の中心でもある。大統領府や大統領官邸もある。宝物の数々が展示されているダイヤモンド庫と武器庫もここにある。

クレムリンの赤い壁 トロイツカヤ塔から入場して、寺院が集まっている広場へ向かった。写真で見慣れているタマネギ型のドームが重なり合って見える。一見するとイスラム教のモスクのドームにも見えるが、屋根に十字架がついているので区別ができる。カトリックの十字架は文字通り十の字だが、正教のそれは、2本多い。

数ある寺院群の中で特に有名なのが、ウスペンスキー大聖堂だ。かつてのロシア帝国の大聖堂で、皇帝達はみなここで戴冠式をした。ウスペンスキーも一般名詞で、聖母昇天という意味。1479年の再建で、当時モスクワのライバルだったウラジミールのウスペンスキーを模範として、建てられたそうだ。内部は撮影禁止なので写真がないが、ガイドブックを見ているうちに思い出した。壁も柱も天井もすべてイコンやフレスコ画で覆われているうえに、いくつものシャンデリア架かっていた。

スラヴァさんは、イコンに描かれた聖人や三位一体像について詳しく説明してくれるが、ほとんどの人は早く終わらないかなあという態度が見え見え。日本人旅行者のほとんどは、三位一体像も聖人像もマリア様も、サッと見れば良いのだ。

イコンはギリシャ語の「図像」「形」に由来している。菩提樹・杉・松などの木を1ヶ月間乾燥させ、キリスト・聖母・聖徒・殉教者を描いたもの。保存するために、漆のような油を上から塗っている。ちなみに、パソコン用語のアイコンも「図像」という意味。

正教の十字架 ウスペンスキー大聖堂 武器庫
正教の十字架は2本多い ウスペンスキー大聖堂 武器庫

ダイヤモンド庫に入るには、厳重なセキュリティチェックがあり、大きい荷物もカメラも預けなければならない。ダイヤモンドや宝石で飾られた王冠など宝物が並んでいるが、私にはあまりにも無縁のものだった。エカテリーナ女帝に愛人が贈ったという世界一大きなダイヤも展示してあった。世界一というダイヤを、トルコのトプカプ宮殿やロンドンでも見た。どれが世界一やら。

 次は武器庫見学。ここも厳重なセキュリティチェックがある。武器を展示しているのかと思いきや、実際には武器は一部。他に、金や銀器・衣裳や織物・馬具や馬車・王冠など祭礼器具・各国からの贈り物。ゆっくり見たら半日以上かかりそうな歴史博物館だ。ダイヤモンド庫も武器庫も、ひとつひとつは覚えてないが、ロマノフ王朝の最盛期を想像するには充分だった。

 他の旅行会社のロシアツアーに「華麗なるロシア7日間」とか、「(きら)めきのロシア6日間」というのがある。たしかにダイヤモンド庫と武器庫と、サンクトペテルブルグの宮殿をめぐるツアーなら、煌めきや華麗の言葉が相応しい。華麗の陰には、圧政に泣かされた多くの庶民がいたはずだ。こう考えると、感嘆のため息が、かわいそうに・・のため息に変わってくる。

見学に時間がかかったので、2時半ころに昼食。朝のビュッフェ以外では、ロシアで初めての食事だ。サラダ・ピロシキ・ボルシチ・チキン・アイスクリームと昼から豪華。ボルシチ(赤蕪が入ったスープ)・ピロシキは、日本のロシアレストランでもお馴染みだが、誰もが「美味しい」と声に出した。日本のピロシキは、中にキャベツや肉が入ったパンを油で揚げたものだが、この後何度も出たピロシキは、すべて揚げてなかった。ジャムが入ったピロシキもあった。

 総じて、ロシア料理は美味しくて、みんなも満足していた。文革直後の中国の食事やベルリンの壁崩壊直後の東欧料理のまずさを思い出してしまった。ロシアもソ連崩壊直後は美味しくなかったのだろうか。

サラダ ピロシキ ボルシチ チキン
サラダ ピロシキ ボルシチ チキン

 次はトルストイの家博物館に行った。トルストイ(1828〜1910)が、1882年から1901年の冬の時期だけ暮らしていた家が博物館になっている。トルストイは、大地主の伯爵の4男に生まれた。ここは工業地帯で、大金持ちの大貴族が住む場所ではないが、あえてトルストイはこういう場所に住んだと、説明を受けた。

博物館の学芸員が各部屋を回って説明してくれた。外観は質素で貴族の館にはほど遠いが、ひとつひとつの部屋は、重厚で感じがいい。カメラ撮影には、150ルーブル(およそ750円)が必要だ。カメラ代を払ったのだから撮らねば損と思ったのか、写真は何10枚もある。トルストイの80歳の時の声も聞かせてくれた。もう録音装置があったのだ。

トルストイの家博物館 トルストイの家居間 トルストイの家族写真
トルストイの家博物館 トルストイの家の居間 トルストイの家族写真

トルストイが亡くなって10年後にロマノフ王朝は崩壊し社会主義国家が誕生した。彼は貴族社会の終焉を喜んだのだろうか、いざとなると残念に思ったのか。聞いてみたい。

博物館の各部屋には、初老のご婦人が座っていた。男性の定年は60歳だが、女性は55歳。日本ですら表面上は差別が撤廃されたのに、男女平等と思われていた元社会主義の国で差別があることに驚いた。退職後は年金暮らしになるが、年金は月に4000ルーブル(2万円弱)と充分でないので、こういう場所で働いている。

 これ以後、どの博物館の部屋にもお年寄り女性が座っていた。「ノーフラッシュ!」など注意するのも、彼女らの役目だ。軍人は20年間働いて40歳ぐらいで年金暮らしになるが、月に1万ルーブルの年金をもらう。軍人は優遇されているらしい。(2009年11月16日 記)

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