ロシアの旅3 2008年7月4日(金)-2日目 モスクワ市内観光の続きを書いている。「トルストイの家博物館」見学後に、雀が丘へ行った。ソ連時代は、レーニン丘と呼ばれていた市街が一望できる丘である。レーニンの代わりに雀とつけた理由は知らない。でも偉大な革命家レーニンのあとが、鷲や鷹ならまだしも雀とは愉快な命名だ。 雀が丘の背後に建つモスクワ大学(左)は、アメリカの摩天楼に対抗してスターリンが建てた7つのスターリンビルのひとつ。他のスターリンビルは車窓から見ただけだが、外務省・文化人アパート・芸術家ホテルなど。モスクワでは「7姉妹」と呼んでいるそうだ。 次は赤の広場。夕方7時というのに、白夜の今は太陽が燦々と輝いている。ソ連時代には、赤の広場での戦車や兵士の行進を、テレビでよく目にした。広場には赤い旗が翻っていた。それもあって、「赤の広場」は共産党の赤旗をイメージした言葉だと思いこんでいた。でも、赤を意味するクラースナヤというロシア語は、古代スラブ語では「美しい」という意味を持つ。赤の広場は、美しい広場のことだった。 下の写真は赤の広場全景。右の赤い壁はクレムリンの城壁、左のビルはグム百貨店、正面は聖ワシリー寺院である。この3つに囲まれた広場が赤の広場だ。長さ695b、幅130b。北京の天安門広場(南北880b、東西500b)より狭いが、戦車と兵士の行進はじゅうぶん出来る。 聖ワシリー聖堂は、ガイドブックの表紙によく使われるほど有名だ。モンゴルとの戦勝記念に、1560年にイワン雷帝が建立。奇想天外の色彩鮮やかなタマネギドームが、9つついている。中に入る時間はなかったが、フレスコ画とイコンは、2日目にして飽きてきた。中に入らないで正解だったかもしれない。 クレムリンの城塞に沿ってレーニン廟が建っている。いつも公開しているわけではないので、中には入れなかった。レーニンは1924年に亡くなったが、遺族の反対にもかかわらず、永久に保存されたという。毛沢東の遺体に対面したことがあるが、見物させているのは蝋人形だという噂を後で聞いた。レーニンはどういう形で保存されているのだろう。 グム百貨店にも入ってみた。外観は日本のどのデパートより重厚で立派、吹き抜けの内部も素晴らしい。フランスやイタリアのブランド店が軒を連ねていて賑わっていた。観光客目当てというより、モスクワっ子に購買力があるのだろう。「ソ連時代は何を売っていたの」と聞いてみた。「衣料品や日用品を売っていましたが、物不足だったから、閑散としていましたよ」とスラヴァさん。
赤の広場に近いレストランで夕食。夕食後の赤の広場は9時過ぎだというのに、明るかった。日没まで1時間半もあるから、まだ観光客が散策していた。<モスクワのコスモスホテル泊> 7月5日(土)-3日目 午前中はモスクワ市内を観光し、午後はスーズダリに移動することになっている。 まず、1524年に建てられた女子修道院・ノボデビッチ修道院(左)へ行った。宗教が悪とされたソ連時代には、ほとんどの教会や修道院は破壊されたり閉鎖されるなど時代に翻弄された。ここも博物館の分館になったが、今は女子修道院に戻り34名の修道女が暮らしている。 城壁内には、スモレンスキー聖堂やいくつかの教会や塔が建っている。イコンの展示室もあった。めずらしく撮影OKだったので、イコンを何枚か撮ったが暗いのでよく写っていない。礼拝堂では、男性コーラスがロシア民謡を聴かせてくれた。 トレチャコフ美術館(左下)は、ロシア美術だけを展示している。創設者はトレチャコフという兄弟。商人だった彼らは、若い時から審美眼があったという。ここも撮影禁止。イコンでは屈指のコレクションを誇るだけあり、色々な派のイコンがあった。中でも切手になった「聖三位一体」や「ウラジミールの聖母」が有名だ。 モスクワの北東に環状に連なる古都群を「黄金の環」と呼んでいる。モスクワ以上に歴史が長い町、モスクワと覇を競った町もある。昼食後は、黄金の環のひとつ、スーズダリに向かう。ロシアの原風景を残しているそうで楽しみだ。モスクワ市内の渋滞を抜けると、白樺やナナカマドの森林と平原が交互に現れる。ところどころに別荘みたいな小さな家があるだけだ。退屈と言えば退屈な車窓だが、ロシアの広大さを実感した。 途中トイレ休憩で寄ったキルジャチの売店で、プリャニークという菓子を買った。マトリョーシカやコインの形をした焼き菓子。ツアー仲間のほとんどが買ったので、日本人は良いお得意様だ。 明日の午後行くことになっているウラジミールを通過して、スーズダリのホテルに着いたのは夜の8時だった。外は明るいのだが、ホテルのロビーは灯りがなく薄暗い。ソ連時代の空港と同じだと思っていたら、なんと全市内で停電だという。5時に停電したからすでに3時間は停まっている。夕食もロウソクのもとで食べた。 |