ロシアの旅7 2008年7月9日(水)-7日目 3時半にキジー島からペトロザヴォーツクに戻って遅い昼食。島にはレストランがないので、中途半端な時間もやむを得ない。 5時からレーニン広場前にある郷土博物館を見学した。カレリア地方の資料を集めた博物館で学芸員の女性がていねいに説明してくれた。カレリア共和国はフィンランドと国境を接しているので、ロシア文化とは違う北方文化が発達した。古い人骨はカレールという民族のもので、今のロシア人とは関係ない。 ロシア人の祖先は、6世紀にヨーロッパロシアのステップに住み着いた東スラブ民族に始まる。9世紀にはヴァイキングのヴァリャーグ人がドニエプル川沿いの地域に進出、彼らのひとりリュークがロシア王朝を建てた。だからロシアの歴史はそう古くはない。
夜のフォークロアショーまでの時間が空いていたので、ふたりで街を散歩した。ホテルはオネガ湖畔にある。ロソジンカ川にかかる橋を渡り、カールマルクス大通りを歩くとレーニン広場に出る。マルクス通りとほぼ直角の通りがレーニン通り。 フォークロアショーを見ながらの夕食。ロシアの踊りではなくフィンランドの踊りだった。お仲間数人が輪に入って楽しそうだった。 <ペトロザヴォーツクのカレリアホテル泊> 7月10日(木)-8日目 2日前と同じ道を通りサンクトペテルブルグに戻る。ホテルを出たのが7時と早いので、バス内でサンドイッチの朝食をとった。 移動時間が長いので、ナターリャさんへの質問タイムになった。移動が長いのは無駄なような気もするが、こうした時間がとれるのは嬉しい。たくさんの質問に対し、ナターリャさんは誠実に答えてくれた。ツアーでは庶民の姿がほとんどわからないが、ガイドとのやりとりで少しは補える。 ペトロザヴォーツク往復の沿道は、極端なことを言うと森林と草原ばかりだった。国土が日本の45倍、世界でいちばん広いロシアには、手つかずの土地がたくさんある。下の写真はペテロザヴォーツクのホテルの回りで撮ったものだが、サンクトペテルブルグに戻る沿道もこのような風景が広がっていた。
ゴルバチョフが登場してペレストロイカが始まったのは1985年。もう25年が過ぎた。日本人にはゴルバチョフは人気があったが、ソ連では人気がない。言葉だけで実行が伴わなかったからだ。 「アメリカはすごく貧乏な国だと報道されていました。鎖国状態だったので真実を知らされていなかったのです。でも今は、新聞もテレビ局もたくさんあります。報道が規制されることはありません。モノの値段が上がり大変なこともあるけれど、社会主義時代より今の方がいいです。」とナターリャさんは言った。北朝鮮からの帰国者が「アメリカや韓国は貧乏だと聞かされていた」という話をしていた。社会主義の国は、同じようなプロバガンダをするようだ。 教育制度を質問した人もいた。小中は6月から9月まで、高大は7月と8月が夏休みで、9月1日が新学期。小学校は4年間、中学校は5年間、高校は2年間、大学が5年間。トータル的には日本と同じようなものだ。サンクトペテルブルグには国立総合大学も含め40もの大学がある。3分の1が大学に進学する。でも、学力低下はロシアでも問題になっている。社会主義時代の方が高かったそうだ。 ソ連時代は皆に仕事があったが、今は大学を卒業しても職につけない人もいる。「大都会ほど失業者多いんです。それに、民営と国営の会社では給料の差が2〜3倍もあるので、サラリーマンにも格差があるんですよ」。面白いことに、最近は会社のトップに坐る女性が増えてきた。ソ連時代の方が男女の差別が大きかったという。社会主義の平等ってそんなものだったの? 住宅に関する質問も多かった。ソ連時代はすべて国有で私有は認められなかったが、今は購入できる。天井が高く部屋も広いスターリン形式のアパートは、2DKで40万ドル。普通のアパートでも25万ドル。だから借りている人が多い。一般的なアパートの家賃は、電気・ガス・水道代を含め、1ヶ月5000ルーブル(2万5000円弱)ほど。 私がもうひとつした質問は、共同生活をして富を分け合っていたコルホーズ(農業組合)とソホーズ(農業ファーム)が、今はどうなっているかということだ。昔の教科書には、理想的な農業経営のように書いてあった。「ほとんどが株式会社になりましたが、今も残っています」ということだった。 |