ロシアの旅8
サンクトペテルブルグ その1

2008年7月10日(木)-8日目

ペトロザヴォーツクからおよそ6時間で、サンクトペテルブルグ(ロシアの旅1の地図参照)に戻ってきた。 ナターリャさんは「ロシア人はペテルブルグ、若者はピーテルと言ってます。日本人はサンクトと言ってますね」と、彼女も日本人にあわせて、サンクトを使っている。サンクトペテルブルグは、ピョートル大帝の守護聖人の「聖ペテロ」から来ている。イエスの一番弟子のペテロのことだ。だから日本人が使うサンクトは、「聖」と言っているようなものだ。せめてペテルブルグと呼びたい。

 ロシア帝国の首都・サンクトペテルブルグは、「北のパリ」「水の都」とも呼ばれ、ヨーロッパでもっとも美しい街のひとつ。水の都ということから大阪と姉妹都市になっている。

ピョートル大帝が、1703年にバルト海につらなる港と要塞を築いたことにはじまる。300年前までは、なにもない湿地だったというから驚く。そういえば徳川家康も荒野と湿地だった地に江戸の街を築いた。もっとも最近は、江戸はすでに活気があったとも言われている。

 ピョートル大帝が都を建設したときは、ドイツ風のサンクトペテルスブルグ。1914年にロシア風のサンクトペテログラード。1924年にレニングラード。1991年にサンクトペテルブルグに戻った。ペテルスブルグのスがなくなった理由は知らない。いずれにせよ、街の名前の変遷が、ロシアの変遷と一致する。

サンクトペテルブルグが首都だったのは1712年から1918年までの200年に過ぎないが、ロマノフ王朝の栄華と終焉、革命の理想と挫折、第2次世界大戦時のナチスドイツによる封鎖と、めまぐるしい歴史を経験した街でもある。

 空港から市内に入るときに、車窓から戦争祈念勝利広場が見えた。サンクトペテルブルグは、1941年9月から1944年1月まで900日間もナチスドイツにより封鎖された。この時は飢え死にする人も大勢いたという。結局ナチスは敗退したので、その勝利というわけだ。

北緯60度にあり、今の日没は10時50分頃。真冬の平均気温は−8度。ナターリャさんは「今年の冬は異常に暖かく、雪がほとんど積もらなかった。いつもは凍るネヴァ川も凍らなかったんです」と話していた。温暖化現象なのか、他の理由なのか。北緯60度と聞くと、とんでもない寒さを想像するが、市内に5ヵ所ある火力発電所が24時間温水を配給しているので、室内は暖かいそうだ。

遅めの昼食後、4時半から運河クルーズである。クルーズ乗り場に向かっている時に、雨が降ってきた。昼食のときは晴れていたのについてない。ところが、乗船する直前に突然青空が見えてきた。「女心とロシアの空」のおかげで、丸1日降られたことは1度もなかった。

運河クルーズの船 運河にかけられた橋 ストロガノフ宮殿
運河クルーズに使った船 ペテルブルグには360の橋がある。 ビーフストロガノフに名が残っているストロガノフ伯爵の宮殿
エルミタージュ美術館 SUSHIの看板 巡洋艦オーロラ号
エルミタージュ美術館。この何倍も広がっていて写真に入りきれない。 SUSHI(寿司)の看板 日露戦争とロシア革命に使われた巡洋艦オーロラ号。

湿地に建設したサンクトペテルブルグには、42の島と360もの橋がある。全長76qのネヴァ川、6.7qのフォンタンカ川や、65もの運河が縦横に張り巡らされている。だから運河をめぐることで、主な名所見学が可能だ。両岸には重厚な石造りのクラシック様式の建物が軒を連ねている。

 文学カフェ・ビーフストロガノフの由来になったストロガノフ伯爵の宮殿・エルミタージュ美術館・ミハイロフ城・日本領事館などなど。「パリやベネチアよりずっときれいね」と感激している人がたくさんいた。「運河の水も建物も、前よりずっときれいになった」と10年ぐらい前に来た人が話している。お化粧直しが進んでいるようだ。

ピョートル大帝が建設したペテロパヴロスク要塞(左)は、以前から行きたいところだった。でも旅程には入っていない。船上から見学出来ただけでもよかった。

高さ122メートルの塔を持つペテロパヴロスク寺院に、ピョートル大帝はじめ歴代の皇帝が葬られている。ちなみにペテロパヴロスクは、聖ペテロ聖パウロのこと。両聖人を祀っているご大層な寺院である。

 最後の皇帝ニコラス2世とその一家は、シベリアで処刑された。ソ連政府は処刑を隠していたが、DNA鑑定で彼らの骨とわかり、1998年にここに埋葬された。革命には、皇帝一家を全員処刑しなければならない非情さも必要だったのだろうが、それにしても惨い。

次に見えてきたのは巡洋艦オーロラ。1900年の建造で、日露戦争の日本海海戦で日本軍の砲撃を受けた巡洋艦だ。今は修復されているが、大穴が開いていたそうだ。日露戦争の名残などサンクトペテルブルグにはないだろうと思っていたが、かろうじて当時の巡洋艦を見ることができた。

 この巡洋艦は、ロシア革命にも関係がある。1917年10月、革命軍がオーロラ号から冬の宮殿(今のエルミタージュ美術館)に向けて発砲したことでロシア革命が勃発した。オーロラ号は日露戦争とロシア革命の2つの歴史を見ていた船である。

今日から4日間泊まるホテルは中心部から離れているが、バルチック海のフィンランド湾に面している。ホテルの前面には、ピョートル大帝の銅像が立っていた。
                       <サンクトペテルブルグのプリバルチスカヤホテル泊>

7月11日(金)-9日目

今日は丸1日、市内の名所を回ることになっている。

まずニコライ聖堂へ。聖ニコライは船乗りの守護神なので、ロシア海軍にもゆかりがある。白い円柱、青い壁面、黄金のドームと明るい雰囲気の教会。

次は聖イサク寺院に行った。この寺院は昨日も遠目に何度も見ている。あちこちから見えるのは高さが101bもあるからだ。101bは、世界で3番目。1位はローマの聖ピエトロ寺院、2位はロンドンの聖ポール寺院。以前はロシア正教の大本山だったが、強固なうえに立派だったので破壊を免れて博物館になった。それ以来今も博物館。

現在の建物はエカテリーナ2世によって建設が始まり、孫のアレキサンダー1世のときに完成。アレキサンダー1世はナポレオン戦争に勝った皇帝だ。国際コンペで決まったこの寺院の設計者は、フランスのモンフェラン。ナポレオン戦争勝利記念の寺院設計者が、ナポレオンの国・フランス人というのは面白い。

床はイタリアやフランスの大理石、緑の柱は孔雀石、青い柱はラピスラズリ。ミュンヘンで作られたステンドグラスもある。イコンは油絵ではなくモザイクである。精巧なモザイクなので離れてみるとモザイク画のようには見えない。寺院はもっと質素でもいいのではないかと、個人的には思うのだが、宗教を利用する権力者の思惑と相まって豪華なものが多いようだ。

聖イサク寺院 聖イサク寺院内部 聖イサク寺院の丸天井
この写真では高さがわからないが、世界で3番目に高い聖イサク寺院 聖イサク寺院の内部 聖イサク寺院の丸天井
ピョートル大帝の銅像 血の上の教会 血の上の教会内部
ピョートル大帝の銅像 血の上の教会 血の上の教会内部のモザイク画

イサク寺院から歩いて元老院広場の青銅の騎士像を見に行った。エカテリーナ2世が作ったピョートル大帝の像である。花崗岩の台座にはロシア語とラテン語で「エカテリーナ2世からピョートル大帝へ」の文字が彫られている。

次は血の上の教会。物騒な名前だが、1881年にアレキサンダー2世が暗殺された場所に建てられた教会。暗殺された場所に建てたにしては、外観の装飾が華やかだ。モザイク、七宝、色のついたタイルなど。内部もたくさんのモザイク画が飾られている。

 この教会は運河の近くにあり湿気が心配なので、モザイクを使ったという。教会の建設が始まったのは1883年で完成は1905年。もうすぐロマノフ王朝の終焉が迫っている。「こんなに贅沢な教会を作るから、革命も起こるんだわ」とひとりごと。ソビエト時代は倉庫に使われたという。ここも破壊を免れたおかげで、こうして観光客が押すな押すな。(2010年2月16日 記)

感想・要望をどうぞ→
ロシアの旅1へ
次(サンクトペテルブルグその2)へ
ホームへ