ルーマニア・ブルガリアの旅 2
 ドラキュラの城

2010年6月21日(月)-2日目

ブカレストの市内見物は後回し。今日は北上してトランシルバニア山脈の麓・ブラショフ近郊まで行く。

 ブカレスト郊外を出ると、オレンジ・グレープフルーツ・りんご・プラムなどの果樹園や草原が続いている。広大な土地は、共産主義時代は国家のものだったが、今は元の所有者に返却された。大地主の場合は少し減らされたそうだ。

石油の掘削ときどき見える鉄塔(左)は、石油を掘削しているところだ。ルーマニアは石油の産地。ソ連の言いなりにならないですんだのは、豊富な石油のおかげだという。

 石油の産地にしては、ガソリンの値段は1g135円ぐらいで、平均月収が400ユーロの国にしては高い。でも自動車は1家に1台はあるとか、私たちも何度か渋滞に巻き込まれた。

 目障りな看板がないうえに晴れ上がっている。車窓からの光景は爽やかだ。でも舗装道路でさえ、ところどころガタガタである。なにかと言うとガタガタが出てくるので、ガイドのマリウスさんはこの日本語を覚えてしまった。

フランス系のスーパー 道路もそうだが、文化のバロメーターでもあるトイレは水圧が低いからか紙が流れないことが多い。ホテルのバスも水が茶色やぬるいこともあった。大勢の観光客を受け入れるインフラは整っていないようだ。でも何回かあったトラブルも、今になると旅の思い出になる。

 途中でトイレ休憩したカルーフールというフランス系のスーパーマーケット(左)は、月曜の午前だというのに混み合っていた。共産主義の時代は、外貨稼ぎのために農産物を輸出せざるを得なかったという。自分たちは食べる物がなかったので、飢餓輸出と言われた。今はなんでも豊富にある。

 トランシルバニア地方ルーマニア・ブルガリの旅1の地図参照)に入ってきた。この地方は1000年間もハンガリー領だった。第1次世界大戦でオーストリー・ハンガリー帝国が敗北し、ルーマニアに返還された。その1000年間は、ハンガリー人がトップにいて、次にドイツ人、ルーマニア人は最下位にあまんじていた。1000年間というと、日本でいえば1010年の平安時代から今年2010年まで他国に支配されていたことになる。こうなると、国家ってなんだろうと思う。

シナイア僧院標高900bのシナイアの町に着いた。ブカレストが200bだから、だいぶ登ってきた。夏は避暑地、冬はスキーリゾート地になるので「カルパチアの真珠」とも言われる。ワラキアの王が1695年にシナイ山に行ってきたことから、町や僧院の名前になっている。

 まず新旧2つの教会があるシナイア僧院(左)へ。古い教会は僧院の内部ばかりでなく、入り口の壁や天井にも宗教画の「最後の審判」などが描かれている。これから外壁に描かれた宗教画をたくさん見ることになるが、この時は初めてだったので外壁のフレスコ画に魅入ってしまった。新しい教会は1846年、カロル1世によって建てられた。

 

ペレス 次はペレシュ城(左)。ルーマニアは、1881年に、ドイツから招いたカルロル1世がルーマニア王国を宣言して王政をしいた。もちろんオーストリー・ハンガリー帝国の一王国でしかなかった。そのカロル1世が1875年に夏の離宮として建立。茶色の木組みの宮殿はドイツでよく見る建築で、ドイツ人の王ならではだ。

 私たちは外観を見る時間しかなかったが、内部は公開している。セントラルヒーティング・エレベーター・掃除機などが設置されていて、当時の最先端をいく宮殿だったという。

 ルーマニアは第2次世界大戦で敗北したので、王政は廃止され、1947年に共産主義が政権を握った。

 城のそばのレストランでランチ。チキンヌードルスープ・サルマーレ(塩づけキャベツの肉包み)ママリガ(とうもろこしの粉を練ったもの)・フルーツポンチ。サルマーレとママリガがルーマニアの名物料理だそうだ。名物にうまいものなしは本当だ。でも、この日の料理が「美味しい!」という方も何人かいたし、このあとの料理は総じて口に合うものが多かった。

 でも30年前にブカレストを6回仕事で訪れた同行のOさんによれは、「肉は固いし野菜も新鮮でない。まずくて困りましたよ」。社会主義は食料が充分あるのが自慢だったはずだが、真実はこんなものだ。

 バスはさらに北上して、「吸血鬼ドラキュラ」で知られるブラン城に寄った。ブラショフのドイツ商人が、14世紀にトランシルバニアとワラキアの国境を守り通行税をとるために作った要塞。14世紀末にはワラキア公国のウラド1世(ドラキュラ伝説のモデルになったウラド3世の祖父)が所有したことから、ドラキュラ伝説の舞台になった。ウラド1世は30年間もこの城に住んでいたが、孫であるウラド3世(ドラキュラ)は数回訪れただけだという。なのに、この城がドラキュラの城ということになってしまった。

 ウラド3世が吸血鬼ドラキュラとされたのは、アイルランドの作家・ストーカーが1897年に「吸血鬼ドラキュラ」を出版、そのモデルに実在のウラド3世をあてたことからである。ウラド3世は、トルコ軍と戦ったときにトルコの捕虜を串刺しにして処刑する残虐な方法をとったので、その残虐さと吸血鬼のイメージが重なったといわれる。

ドラキュラの城 ドラキュラの城 ドラキュラのTシャツ
ドラキュラの城外観  ドラキュラの城の内部  ドラキュラのTシャツ 


 戦争に処刑はつきものだし、世界史上彼だけが残虐行為をしたわけではない。彼は国を救った英雄であって、吸血鬼と呼ばれる筋合いはないと思うが、小説が出版されたのはウラド3世が活躍した時代の何百年も後。「そんな事どうでもいいよ」と墓の中で言っているような気がする。

 なにはともあれ、ここはルーマニアきっての観光名所であり、ドラキュラを描いたマグカップ、Tシャツなどドラキュラグッズを売る露店が賑わっている。ドラキュラのおかげで生計を立てている人が何百人もいることは確かだ。

駐車場から山道を登ってブラン城に着いた。この城は可愛らしくて木製の暖かみがあり、吸血鬼の陰惨な印象とはあまりにかけ離れている。後にルーマニアのフェルナンド王の王妃マリーが全面的に改装したとの説明を聞いて、可愛らしさの理由がわかった。

 「マリー王妃は、ビクトリア女王の孫でロシア皇帝の孫でもあるんです」と、マリウスさんは系図を見ながら説明する。ヨーロッパの王室が、国を越えて結婚を政略に使っていた時代の話だ。城のいちばん上に登ると、ワラキアとトランシルバニアの両方が見えた。初期の目的が見張りの要塞だったことが頷ける。

夕方6時ころ、宿泊地のポイアナ・ブラショフのホテルに着いた。ブラショフから少し離れたリゾート地で標高1000b。 <ポイアナ・ブラショフのアルピンホテル泊>

6月22日(火)−3日目

 人口30万の都市ブラショフは、中世の町並みを残す古都である。12世紀にドイツ商人が建設し、ハンガリー人とルーマニア人の3民族で発展してきた。ブラショフは、チャウセスク大統領に初めて反抗した都市としても知られる。

 聖ニコラエ教会先住ルーマニア人が、ドイツ人によって移住させられたのがスケイ地区である。まずスケイ地区にある聖ニコラエ教会(左)を見学した。正教の世界では、ミラノの司教だったニコラエを祀る教会が多い。航海や子どもの守護聖人。ロシアにもあったし、今後もいくつかの聖ニコラエ教会を目にすることになる。

 。14世紀建立時は小さな正教会だったが、この地がルーマニア人のものになった後に増改築された。教会の左にある建物は、ルーマニア語で教育された最古の学校。ドイツ人が威張っていた時代にもルーマニアの独自性を持とうとしたのだろう。

 スケイ門から旧市街に入った。ここはドイツ人とハンガリー人が住む地域だった。そこで黒の教会を見た。ドイツ人とハンガリー人の教会だから、ドイツルター派のゴシック教会だ。ハプスブルグ軍の攻撃を受けて外壁が黒こげになったことからこの名がついたが、何度も修復しているうちに、黒こげの跡などなくなってしまった。

 町の中心広場にある1420年建立の旧市庁舎は、今は歴史博物館。トランシルバニア地方の歴史が分かるコレクションがあるが、中に入る時間はなかった。

 ハンガリー人に長く支配されていたせいか、ルーマニア人の半数はハンガリーが嫌いだという。「社会主義時代にロシア語が強要されソビエト軍が駐留していたので、ロシアはもちろん嫌いだ」とマリウスさんは言う。「ルーマニア人が好きなのはアメリカ・イギリス・フランス・イタリア・スペインです。日本に関心を持っている人は少ない」とにべもない。

ラクロシュ湖ブラショフ市内見物後は、長い移動時間である。バスは、カルパチア山脈の山麓を通りルーマニア北東部のクンプルング・モルドベネスクまで走る。途中のミュルラク・チェクという町は、ルーマニアでもっとも寒く、冬は−20度ぐらいになる。チェクとつく町はハンガリー人が多く住んでいる。そんな話を聞いているうちに、天気は怪しくなってきて夏にしては寒い。

ラクロシュ湖(左)で下車したときには、1枚上着を羽織った。この湖は日本のガイドブックには「赤い湖」と出ている。添乗員のSさんは「みなさん、今日は茶色に近い赤いですね」と言い訳するが、単に汚い茶色だ。

 マリウスさんに「なぜ赤い湖なの」と聞いたら「赤いことなんか一度もない。普段はブルーだよ。日本のガイドブックに赤い湖と書いてあるだけだ」と夢のないことを言う。「特に”○○の歩き方”はよく間違っているよ」と。


遠足の中学生 1837年の地震でビカズ川がせき止められて出来た湖で、あえて見物するような湖でもないと思うが、ルーマニアの中学生(左)も遠足で来ていた。みな清潔で可愛らしい洋服を着ている。貧しい国と聞いていたが、中学生の団体を見る限り、そういう印象はない。

ラクロシュ湖見物後にランチ。湖で捕れたマスのグリルが出た。

次の見学地はビカズ渓谷。ビカズ川の浸食で出来た渓谷で高さ300bの絶壁が続いている。バスを降りるころに本降りになってきた。傘を差しても風が強いので飛ばされそうだ。「こんな渓谷どうでもいいな」と内心では思うものの、団体行動を敢えて乱すこともないから、500bの道をしょぼしょぼと往復した。観光客が歩く傍らを、スピードを緩めない乗用車が走り抜けていく。観光客に対する思いやりがない。夕方7時半ころ、クンプルング・モルドベネスクのホテルに到着。<クンプルング・モルドベネスクのジンブルホテル泊> (2011年12月2日 記)


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