ルーマニア・ブルガリアの旅 


2010年6月20日(日)〜7月1日(木)


ルーマニアへの思い
ドラキュラの城
外壁のフラスコ画がすばらしい5つの修道院
フォークロアの里・マラムレシュ地方
ブカレスト市内
ブルガリア入国と琴欧洲の実家
シプカ修道院とバラの谷の中心地カザンラク
プロブディフとバチコヴォ修道院とボヤナ教会
リラの僧院
ソフィア市内

 ルーマニア・ブルガリアの旅 1
 ルーマニアへの思い

「ルーマニアへの思い」は、10年前にルーマニア旅行記のメルマガに出会った時に芽生えた。現地の人との触れあいが巧みに描写されているうえに、写真も上手。上手なのは当たり前で、脱サラしてプロの写真家になったキットさんのメルマガだった。

メルマガで見るフォークロア(民族学・民間伝承)の里・マラムレシュ地方には、ブリューゲルの絵のような世界があった。ブコヴィナ地方の修道院には、「天国を映し出す鏡」が外壁に描かれてあった。両地域とも村人の交通手段は馬車だ。

マラムレシュ地方の女性 馬車 フレスコ画
マラムレシュ地方のお年寄りは祭りでもないのに民族衣装を着ている  もちろん車も通っているが、馬車はひんぱんに通る  ブコヴィナ地方の修道院の外壁にはフレスコ画が描かれている 


EUに加盟したらフォークロアの世界は消えてしまうかもしれない、そうならないうちに行きたい。でも申し込んでもツアーが催行しないなど、これまで縁がなかった。そうこうしているうちに、2007年にEUに加盟してしまったが、10年前の思いがやっと実現した。

どうしても行きたかったのはルーマニアだが、ブルガリアとセットになっているツアーが多い。ブルガリアはリラの僧院・琴欧洲・ヨーグルトしか知らないが、なんでも見てみたい私には、ちょっとのぞくのは好都合だ。民族が違う両国を肌で感じたい気持ちもある。

2010年6月20日(日)−1日目

 13時35分(成田発)→アリタリア航空で19時5分(ローマ着) 7時間の時差があるので12時間半のフライト22時20分(ローマ発)→アリタリア航空で13時5分(ブカレスト着) 

成田→ローマ→ブカレストまで同じ飛行機に乗っていたルーマニア人の母子がいた。日本語を話す3歳ぐらいの男の子はあきらかにハーフ。ママの話では、パパは日本人で海老名に住んでいる。夏休みで帰省するところだという。

ルーマニアで知り合ったというが、それにしてはきれいな日本語を話す。「言葉がわからないと生活していけないから必死で覚えたんですよ。ルーマニアにはきれいな所がたくさんあります。旅を楽しんでください」と笑顔で話す。住所交換をしなかったけれど、ルーマニアの印象や疑問を話せたらなあと、今になって思う。

ツアーの仲間は5組の夫婦と1人参加など計14名のオールシニア。少なすぎても寂しいからこのぐらいの人数がちょうどいい。大型バスに悠々と坐ることができるし、説明も聞きやすい。

ルーマニアとブルガリア(左)の主な名所は、ほとんど回ることになっている。

夜中の2時ころホテル着 ルーマニアの夜中の2時は日本では朝の8時。今回も家を出てから宿泊地のホテルまで24時間かかった。ルーマニアに入国するのに、ローマ経由とはおそれいる。ウイーン経由ならずっと近いのに、E社は都合の良い便を抑えられなかったのだろう。

ブカレストの空港両替所は深夜にもかかわらず2ヵ所も開いていた。現地通貨に換えないことには明日から困るので、ユーロからルーマニアの通貨レウに換えた。1レウは約30円。紙ではなくプラスチック製だというが、質感はさほど変わらず折り曲げることもできる。

2014年からはユーロになるらしいが、ギリシャの二の舞にならなければいいが。もっとも他国の心配をする余裕は今の日本にはない。
                                          <ブカレストのラマダパークホテル泊>

6月21日(月)−2日目

 今日から27日の午前中まで、ルーマニアのガイドは中年男性のマリウスさん。日本語を話せないのは残念だが、日本に来たことがあるので、良いガイドに恵まれたと思う。説明の最後に必ず“Any  Question?”と言うので質問しやすい。仲間には教会美術を勉強している人、仕事で何度も東欧を訪れた人、私以上に知りたがり屋がいたので、マリウスさんも説明のしがいがあったのではないだろうか。

ヨーロッパはスルーガイドがつかない場合が多いが、ルーマニア滞在中はマリウスさんが常に一緒。移動バスの中でも話が聞けるので、ルーマニア事情を知るには好都合だ。

 ルーマニアの面積は日本の本州とほぼ同じ。でも人口は約2200万人で日本の5分の1だ。人口のほとんどはルーマニア人だが、他にハンガリー人・ドイツ人・トルコ人・ロシア人・ウクライナ人・ユダヤ人・ロマ(ジプシー)がいる。外敵が侵入しやすい位置にあり、古くからギリシャ、ローマをはじめ、ハンガリーやトルコに支配されていた時代が長かったので、たくさんの民族が住んでいてもなんら不思議はない。

ルーマニア人公用語はルーマニア語である。チャウセスク大統領が処刑されたころ、ルーマニア(Romania)はローマ人の国の意味、東欧では唯一のラテン民族という報道があった。ローマに支配された国は、ルーマニアばかりではない。ブルガリはむろんのこと、今のイギリスですらローマ帝国の一部だった。「なぜルーマニアだけがラテン民族なのだろう」と思い続けていたが、ガイドに聞くチャンスがなくその疑問は謎のままだった。

帰国後に調べたら「ラテン民族は、ロマンス語を話す民族」と、広辞苑に出ていた。この短い説明で少し納得がいった。ルーマニア語は、イタリア語・ポルトガル語・スペイン語と同じロマンス語派に属している。ローマ人の血が濃いというより、言語がラテン民族の言葉に近いのだ。

なんせローマがこの国を支配していたのは106年から271年までのわずか165年。支配されていた頃も、大挙してローマ人が押し寄せたわけではないから、ローマ人の血が濃いとは思えない。

「ルーマニアはラテン民族、ブルガリアはスラブ民族なので、気質が違う。ルーマニア人は陽気で明るいが、ブルガリア人はどこか陰気」という話も聞く。でも実際に見聞した限りでは、両国の気質の違いなど分からなかった。わずか10日ぐらいでは分かるはずもない。

ブルガリア人顔もほとんど同じで、私にはルーマニア人とブルガリア人の区別がつかない。上の写真のウェイトレスはルーマニアのレスとランで撮らせてもらった。左の写真はブルがニアの街角で撮った。どちらもいわゆる西洋人の顔だ。

日本に住んでいる韓国人や中国人も日本人と同じように見えてしまう私には、人種の違いを知る能力が欠如しているのかもしれない。

1978年から82年の共産主義時代に、ウイーンに駐在して主に東欧諸国を仕事で回っていた方がツアー仲間にいらした。その方は「ルーマニア人は無愛想で付き合いにくく、時に銃を突きつけられることもあったが、ブルガリア人は非常にフレンドリー。だからブルガリアのソフィアには37回も出張したが、ルーマニアのブカレストには6回しか行かなかった」と、強調なさっていた。こうなると、ルーマニアはラテン系だから愛想が良いなどの話は怪しくなってくる。   (2011年11月16日 記)


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