ルーマニア・ブルガリアの旅 4
 フォークロアの里・マラムレシュ地方

2010年6月24日(木)−5日目

 きのうと打って変わって快晴。今日は、ブコヴィナ地方の西にあるマラムレシュ地方ルーマニア・ブルガリアの旅1の地図参照)へ移動する。両地方ともブカレストからかなり離れていて、陸の孤島のような所だ。

 ブコヴィナ地方とマラムレシュ地方は隣り合わせだが、カルパチア山脈が遮っているので、以前はほとんど交流がなかった。江戸時代には、峠を越えることもなく、ひとつの農村だけで暮らした人が多かったと聞くが、そんなものだと考えると分かりやすい。近代から取り残されたような地方。取り残されたというより、近代を拒否して自分たちの伝統をかたくなに守っている地方なのかもしれない。

 ホテルを出発して1時間半ぐらい経ったころ、川縁にたくさんの羊がいた。思わず「止めて〜」と叫んだら止めてくれた。E社のいいところは、可能な限りこうした要望に応えてくれるところだ。羊の群れは珍しくもないが、清流と羊の組み合わせは初めてだ。マリウスさんに川の名を聞いたら、「ピストリッツア川」。

 標高1416bのプリスロプ峠でトイレストップ。ブコヴィナとマラムレシュを分ける峠だ。標高が高いせいか、風が冷たい。この峠から2時間ぐらいでマラムレシュの村に着いた。いよいよ念願のフォークロアの世界だ。マラムレシュを知るのは古いヨーロッパを知ることにつながるという。

見学予定にはない木の教会に、大勢の人が集まっていた。添乗員のSさんが「ミサをやってますね。バスをおりましょう」と気を利かせてくれた。今日は聖ヨセフの日らしい。

民族衣装 民族衣装 民族衣装
木綿のワンピースににオレンジと黒の縞もようのエプロン、花もようのスカーフ 文句なくかわいい!美人! レースのフリルが豪華でかわいらしい。


 思えばこの偶然がなかったら、若い女性や子どもの民族衣装姿に出会えなかった。フォークロアの里とはいえ、若い子は教会に行く時や行事の日しか民族衣装を着ない。木曜日の今日、ミサをやっていたのはラッキーだった。

木の教会 教会の庭に入りきれない人たちが、歩道にあふれていた。近づいていったら「どうぞどうぞ」というしぐさで前を譲ってくれる。どやどやと割り込んできた、礼儀知らずの観光客にも暖かい。

民族衣装でおめかしした18歳ぐらいの女の子に声をかけたら、カメラの前で得意げにポーズをとってくれた。木綿の白いレースのフリルがあるワンピースに、オレンジ色と黒の縞模様の分厚い布を巻いている。花模様のスカーフも被っている。ほかにも、人形みたいに可愛らしい子がたくさんいた。彼女らも、普段はジーンズをはいているのだろうか。

マラムレシュ地方にはたくさんの木の教会が残っているが、そのうち8つが世界遺産に指定されている。ブコヴィナ地方とマラムレシュ地方は隣り合っていて、両方とも正教の教会なのに、そのたたずまいはまったく違う。

まずボグダンヴォーダの木の教会(左)を訪れた。モルドヴァ公国の建国者ボグダン公の名をとって、1723年に建立。木造建築が当たり前だった日本では、あえて「木の神社・木の寺」とは言わないが、考えてみると屋根は木でないことが多い。

 この地方の木の教会は、上から下まで木しか使ってない。屋根はモミの木、他は楢の木。われわれ以外、見学者がいないこともあって、しっとりとした木の感覚を全身で感じることができた。

 木の教会は、支配者であるオーストリー・ハンガリー帝国が、費用のかかる石造りを禁止したからだという。今となっては何が幸いするかわからない。

木の教会もさることながら、バスを駐めたところから教会までの道すがら、短いスカートにスカーフを被った女性や、黒い帽子を被った男性が、普通に歩いている。日本で言えば、お年寄り全員が和服を着ているようなものだ。フォークロアの里に来たのだと実感する


 4人(左)の女性がが並んで坐っていたので、アイコンタクトと身振り手振りで写させてもらった。こんなときのために「ありがとう」だけは、旅の初めに覚える。ありがとうはムルツメスクだ。ルーマニア語で、おしゃべりの輪に入ったらどんなにか楽しかろう。子育てや亭主の話、料理で盛り上がるかもしれない。

ランチをとったレストラン前を流れるティサ川のむこうは、ウクライナ。きのう回ったブコヴィナ地方も今日のマラムレシュ地方もルーマニアの最北端にあり、ウクライナと国境を接している。だからウクライナが目の前にあっても不思議はないのだが、隣国の建物を見ながら食事をする経験に乏しい私には、ちょっと興奮する出来事だ。

次はサプンツア村の「陽気な墓」を見に行った。マラムレシュ地方でいちばん賑わっていたのが、ここだ。中学生の遠足の団体も来ていたし、外国人ツアー客もいる。土産物屋が何軒も並び、大型バスも停まっている。

 村人のパトラシュさんが、1935年に故人の生前の職業や生活を墓標に彫ったところ大好評。説明文は分からないが、カラフルな絵を見ているだけで楽しい。羊飼い・教師・農夫・聖職者・織物好きの主婦・料理好きの主婦など生前の彼ら彼女らが想像できる。観光に多大な貢献をしたパトラシュさんは1977年に亡くなったが、弟子が継いでいる。彼の墓には、大きな字でパトラシュと出ているのですぐ分かる。

陽気な墓 パトラッシュさん 車にはねられた女の子
陽気な墓がたくさん並んでいる 。 考案者パトラッシュさんの墓  中には悲しい墓もある。この女の子は3歳で車にはねられたようだ。 

「日本にもこんな陽気な墓があったらいいな」と思わないでもないが、日本の墓は個人のものではない。いくら真似が好きな日本人とて、そうたやすくは、取り入れないような気もする。

次に向かったのはブデシュティの木の教会。普通なら木立に囲まれた静寂な木の教会の内外を見学して終わりだったかもしれない。ところが、またまたラッキーなことに、30名ぐらいの村人が集まっていた。1周忌のミサが終わって、いわば宴会が始まるときに出くわしたのだ。集まっている人たちに涙顔はなく楽しげ。想像するに天寿を全うした方だったのだろう。

 村人とふれあえるチャンスに恵まれた私たちは、本当についている。この1周忌の集いに出くわさなければ、フォークロアの里の表面を見ただけで不満が残ったことだろう。

紙皿にケーキやパンを配っているところだった。あきらかに邪魔な侵入者にもイヤな顔をしないで、「食べろ食べろ」と紙皿いっぱいに配ってくれる。食事をしたばかりだからお腹はすいていないが、笑顔とムルツメスク(ありがとう)でこたえながら、私は写真撮りにも忙しい。亡くなった人が年寄りだったのか、若者はいなかった。中年の女性数人と子ども連れの若いお母さんが1人いたのは、遺族だろうか。

出来上がった写真を見ると、オバアサン達の立ち姿がなんともかわいらしい。お腹周りは100aぐらいあるが、短いプリーツスカートから出ている足は、ほっそりしている。若い頃は村の青年をさぞ夢中にさせたに違いない。スカートは黒地が多いが、青っぽい花模様の人もいる。日本の場合は1周忌なら間違いなく黒い喪服ばかりだが、少しバラエティに富んでいる。

1周忌ミサのあと ミサの後
一周忌のミサのあと、お菓子を食べているおばあさんたち年寄り  酒を飲んで陽気になったおじいさん 

オジイサン達は民族衣装は着ていないが、可愛らしい帽子を被っている。男性はいずこも同じで、ケーキよりお酒。私にも飲め飲めと勧めるが、ビールでさえ真っ赤になる私がこんな所で飲めやしない。数人の男性が飲んだが「こりゃ〜強い酒だ」と言っていた。赤ら顔で足下をふらつかせながらも、私たちにまで飲ませようという気遣い。みな人なつこくて暖かい。

私は村人との交流に忙しく、ろくに説明を聞いていなかったが、木の教会は別名聖ニコラエ教会。1643年に建てられた。もちろん屋根も外壁もすべて木である。

最後の見学はシュルデシュティの木の教会。バスで向かうときに、道ばたで手をあげた女性を気軽に乗せていた。このあたりでは公共機関が発達していないので、ヒッチハイクが当たり前に行われている。

動物に囲まれた農家教会はバス道路から奥まったところにあるので、農家が点在している道を歩いた。どの農家にも庭先に馬がいて、まるで家族の一員のようにかわいがっている様が見て取れた。

 馬・放し飼いの鶏・豚・牛なども飼っている(左)。思えば私が小さい頃に数年間住んでいた田舎には、こんな農家がたくさんあった。

教会の入り口が閉まっていたので、隣に住んでいる神父の奥さんに鍵を開けてもらった。1721年建立の聖ミカエルと聖ガブリエルに捧げられた教会。

 この教会は、今まで見てきたルーマニア正教会とは少し違う。ローマ教皇を認めつつルーマニア正教の信仰を守っているギリシャ・カトリック教会だ。

 ルーマニアは東方正教世界とカトリック教会世界の両方に接しているので、両派の対立に巻き込まれることが多かった。なんとか融和をはかったのが、ギリシャ・カトリック教会である。

正教会の教会とは違う点が3つある。正教の教会はイコンが偶像の役目をしているが、ここには聖母マリアとキリストの像が1体ずつあった。正教は椅子がなくて立ったままお祈りするが、ここには椅子が並べてあった。3つ目は、イコノスタシスで遮られている門が開放され、祭壇の中が見えることだ。イコノスタシスは、イコンをかけるパネル。世俗と神の座所を隔てる仕切りになっていて、正教会の場合は門が閉まっている。

キリスト教は、カトリックとプロテスタントと東方正教会に大別される。それぞれ細かい違いがあるが、この木の教会を見たおかげで、カトリックと正教会の具体的な違いが分かった。カトリックと違って神父が妻帯者だということも、奥さんが出現したことで忘れない。内部には刺繍をした布が所狭しと飾ってあった。ガイドのマリウスさんによれば、このあたりの女性は家の中を手作りの刺繍で飾るのが大好き。その延長で信者がここに寄付するのだ。

外から改めて教会を眺めると、高くて1枚の写真におさまりにくい。塔の高さが54b、全体で72bもある。

思い出してみると、木の教会を見るのは初めてではない。ポーランド北欧でも見た。イエス像も木でつくられた素朴さが印象に残っている。ロシアのキージー島にあるロシア正教の教会は、ほれぼれするほど美しかった。ロシア正教の特徴のタマネギ型のドームが幾重にも重なっていた。でも、サンクトペテルブルグから往復2日を費やして見に行った割りには感動が少なかった。単なる展示物になっていたからだとう思う。

その点、マラムレシュ地方の木の教会は土地の人に根付いている。村人の生活は、教会を中心に回っている。信仰の場であると同時に、コミュニティハウスの役割もしている。1周忌のミサ、聖ヨセフのミサ、神父さんの奥さんとの触れあいがなければ、単なる展示建物と思ったかもしれないが、マラムレシュの木の教会は、村の鎮守様であることを実感した。

マラムレシュ県の県庁所在地バイア・マーレの町に入ってきた。マラムレシュの村が夢かと思うような都会。牧歌的な雰囲気はまったくない。<バイア・マーレのカルパティホテル泊> (2012年1月2日 記)


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