ルーマニア・ブルガリアの旅 5
 ブカレスト市内

2010年6月25日(金)-6日目

 今日は飛行機でブカレストまで行く。ルーマニアには15も飛行場があるので、当然バイア・マーレにもある。バスで2時間半もかかるクルージ・ナポカの飛行場まで行くのは、良い便が取れなかったのだろう。風景を楽しむにはバスもいいものだ。

 クルージ・ナポカは紀元前2世紀にローマの植民都市だった。ローマ時代の遺跡が残っていると聞いたが、観光の時間はない。

クルージ・ナポカ(9時15分発)→タムロ航空でブカレスト(11時50分)着

 ブカレストの国際空港には初日に着いているが、今日は国内線の空港。両方ともこぢんまりとした空港だ。

 遅めのランチを市内のレストランでとった。「ブカレストはつまらない町だよ」と言う人がいたのでさほど期待していなかったが、バスを駐めた所からレストランまでの道筋には、クラシカルな銀行やミリタリークラブなどのビルが並び、戦前に「バルカンの小バリ」と言われていたのが、うなづける。カジノの看板もよく見る。ブカレストだけで20もあるという。元共産主義の国に、カジノがたくさんあることに驚いた。

ブカレストの街並み あか抜けしているブカレストの女性 1870年代のレストラン
ブカレストの繁華街にはバルカンのパリと呼ばれた頃の雰囲気が残っている。  レストランにいる人たちもあか抜けている。映画のワンシーンのようだ。  1870年代建築のレストランの天井部分。 


 レストラン・Caru cu Beerは、1870年代建築で趣がある。Beerの名がつくビアホールだから、少しガサガサしているが、あか抜けしたブカレストっ子の男女が談笑していた。きのうのマラムレシュ地方は夢かと思うようなしゃれた雰囲気だった。

 昼食後、ブカレスト観光の目玉「国民の館」に行った。大きすぎて、近くからでは全体が入らないので、道路を隔てた広場からカメラにおさめた。国民の館とは名ばかりで、チャウセスク大統領が自分の欲望を実現しようとした宮殿で、国民のための建物ではない。建物の表面積はアメリカのペンタゴンに次いで世界2位と、とてつもなく広い。部屋数は3107もある。100人の建築家が携わったが、総責任者は当時28歳の女性だった。

国民の館全景 国民の館細部
国民の館全景  国民の館細部 

 中に入るには大きい荷物は預けねばならないし、セキュリティチェックもある。カメラ代はひとり30レウ。1000円近い。ルーマニアのお金が残っていないので写真は撮らないことにした。見学は専任ガイドに従わねばならない。「ガイドは説明するだけで質問は受け付けません」とあらかじめ言われていたが、1ヵ所の説明が終わるたびに“Any question?”と呼びかけるフレンドリーなガイドだった。

 3000以上ある部屋を全部見るわけではなく、主な部屋をまわった。宮殿ごとき建物の説明は「最大のシャンデリアです。大理石は○○製。カーペットは△△国からの贈り物」などどうでもいいことが多いのでろくに聞いてなかったが、豪華さは目に焼き付けた。映画のロケや会議場やコンサートに貸し出しているようだ。少しでもチャウセスクの無駄遣いを回収したいのだろう。

建築開始は1984年で、完成は1994年。1984年といえば、ロシアや東欧の共産主義国家が崩壊する5年前である。国の経済も窮乏していたろうし、国民は飢餓に苦しんでいたはずだ。それにもかかわらずこんな豪華な館を建てようとした大統領、それに異を唱えることをしなかった取り巻きの権力者たち。これでは絶対王政の時代と同じではないか。

 チャウセスクは最初から独裁者だったのではなく、北朝鮮を視察後に変わったという。トランシルバニアに住むハンガリー人を弾圧したり、5人の子どもを産むように強制した。

でもルーマニアの革命10周年に当たって行なわれた世論調査では、6割を超える国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答えたそうだ。ちなみに年金は現役時代の65%を、女性は57歳から男性は62歳からもらえる。平均寿命は男性が69歳、女性が73歳。あくまで平均値での計算だが、女性は16年間もらえるのに、男性は7年間しかもらえない。

 たまたま帰国後の2010年7月15日の朝日新聞には「ルーマニア消費税5%上昇 緊縮策苦しむ弱者 パン配給に年金生活者が行列」という見出しの記事が載った。マリウスさんは、「自由になって良かった」と言っているが、誰もがそうではないらしい。「自由よりパンを」の気持ちも分からないではない。私も年金暮らしだが、パンを求めて行列などしたくない。

国民の館でいちばん印象に残ったのは、バルコニーから見る景観(下)だ。共産主義になったときに、住民を強制立ち退きさせ、計画的な町並みを作った。幅の広い統一通りが延び、共産党幹部の人たちの高層住宅が、あたかも館を守っているかのように建っている。幹部が住んでいたビルは、今は大会社の本社などが入居している。

バルコニーからの眺め

「カメラ代を払ってないけど、バルコニーから外は撮ってもいい?」と聞いたら「良いです」。小さなカメラをバッグに入れておいて良かった。ガイドが「バルコニーからマイケルジャクソンが“Hello ブタペスト!”と叫んだんです。ここはブタペストではなくブカレストですからね」と話した。無知だったのか単に言い間違ったのか。死後1年経っても、こんなことが話題になるんだなと思った。

話題といえば、体操のコマネチ選手は国民の館で結婚式をあげた。白い妖精と呼ばれたコマネチの演技は完璧だった。モントリオールとモスクワの2回のオリンピックでメダルを獲得したとき、チャウセスク大統領が大喜びしていた映像も覚えている。

 ルーマニアの英雄になったが、監視がつく生活に嫌気がさして、1989年12月1日アメリカに亡命。チャウセスクが処刑されたのは同じ年の12月25日。コマネチが命がけで亡命するまでもなく、24日後に独裁者は消えた。結婚したのは1996年。あれほど嫌っていたチャウセスクが建てた館で結婚式をあげたのは、なぜだろう。やっぱり祖国を愛しているのだろう。

共産党本部次は少し離れた革命広場にバスで行った。歩いたほうが面白いと思うが、ツアーは旧市街などをのぞき、バスで移動することが多い。革命広場を囲むようにしてアテネ音楽堂・大学図書館・共和国宮殿・旧共産党本部の建物がある。広場にある銅像は、社会主義体制に反対して投獄されたコルネス・コボス。現代彫刻を思わせる銅像だ。

旧共産党本部(左)は現代史の舞台だ。1989年12月22日にチャウセスクはテラスで大演説をしたが、ブーイング。直後に屋上からヘリコプターで逃亡した。ヘリコプターで逃亡した話は、3月にホーチミンで聞いたばかりだ。独裁者の最後はヘリでの逃亡が多い。チャウセスク夫妻は逃亡中の25日に軍事法廷にかけられ、その場で虐殺された。子どもや孫はどうしているのだろう。

旅行前に米原万里さんの「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」を読んだ。万里さんは共産主義下のプラハで各国から来ている共産党幹部の子ども達と同じ学校で学んだ。この本は、共産主義崩壊後、かつての同級生たちを探しまわる実話だ。ブカレストに行ったのは1995年だが、この時は共産党幹部の人たちは相変わらず特権を持ち豪勢な家に住んでいた。マリウスさんに「今でも共産党は力を持っているの」と聞いた。「そんな特権はない」の答えだった。万里さんが訪問してから、もう15年以上過ぎている。

凱旋門今日泊まるホテルは、中心街から少し離れている。バスで向かう途中に凱旋門(左)があった。ローマにちなんで国の名前をつけたルーマニアで、今まで一度もローマ遺跡を見なかった。この凱旋門がローマ時代のものかなと思ったが、とんでもない。

 第一次世界大戦の勝利を記念して1919年に建てたもの。最初は木造だったが、1930年に現在のものに作り替えた。そばには、菩提樹やマロニエの並木、大きな公園がある。凱旋門とマロニエと言えば、パリのシャンゼリゼ通りを思い出すが、ここは繁華街からは離れている。

5時頃に、初日に泊まったホテルに着いた。そばにスーパーマーケットがあるわけでもない。出歩いても面白そうなところはないので、荷物の整理をして過ごした。  <ブカレストのラマダホテル泊>

                   (2012年1月16日 記)



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