ルーマニア・ブルガリアの旅6
 ブルガリア入国と琴欧洲の家

2010年6月26日(土)-7日目

ひまわり畑 旅は後半に入り、ルーマニアとお別れ。今日は陸路で南下してブルガリアに入る。ホテル出発後すぐ、20年前のルーマニア革命で命を落とした300名の墓が見えた。ドライバーのドレウさんの兄嫁も葬られているそうだ。

 成人していたマリウスさんやドレウさんは、革命の動乱期をどのように迎えたのだろうか。いろいろな変化に直面したはずだが、そういう話は聞かせてもらえなかった。その点が物足りない。

南下するにつれ、畑が多くなった。満開のヒマワリ畑(左)や小麦畑が延々と続いている。ここがワラキア平原だと実感する。

1時間半ほど走ったギュルギュウという町で、ブルガリアのバスに乗り換えた。もちろんガイドも代わった。ブルガリアのガイドは若い男性のゲオルギ君。「ハンサムね」と私たちオバチャン達はささやく。

 ブルガリとルーマニアの国境は、ドナウ川。ドナウ川はドイツの「黒い森」からオーストリー・ハンガリー・旧ユーゴなど経てルーマニアの黒海に注ぐ。流域面積がいちばん広い国はルーマニアだから、ドナウ川はルーマニアの川と言っても過言ではない。でもこの旅では、ドナウデルタも黒海の河口も目にすることはなかった。

長さ1.1qの友情の橋を通っているときに、幅の広いドナウ川が眼下に見えた。ドナウ川を見るのは4度目だが、いつ見ても「青きドナウ」ではない。

さてブルガリアだが、日本の3分の1の面積に、人口は約730万人。事前の知識といえば、○○ブルガリアヨーグルト・琴欧洲の出身国・リラの僧院ぐらい。リラの僧院とて、旅のパンフレットに必ず出ているから名前を知っているだけだ。社会主義の終焉は、国民の投票によるものだった。ルーマニアのように大統領が処刑される革命がなかったこともあり、20年前に大きな報道はなかった。 

キリル心許ない入国だったが、標識や看板の文字を見て、違う国に入ってきたことを実感した。ルーマニアの文字はローマ字とほぼ同じだが、ブルガリはキリル文字。左は琴欧洲の実家でもらったカードの一部で、「大関琴欧洲」と書いてある

 キリル文字はロシアの文字と同じ。今の力関係を考えると、ロシアからブルガリアに伝播したように思うが、逆にブルガリアからロシアに伝わった。キリスト教を国教として受け入れたボリス1世(853〜889)の時に、ブルガリアの僧侶キリルとメトディウス兄弟が、聖書を書くために考案したものだ。

ルセという町でブルガリアのお金に両替した。ブルガリアの紙幣の単位はレフ。ルーマニアがレウだから響きがよく似ている。1レフは60円ぐらい。ユーロを使える店も多いと聞き、わずかしか両替しなかった。

アルバナシ村のレストランのテラスで、昼食。陽気な音楽が聞こえてくるレストランの中を覗いてみたら、結婚パーティーが盛り上がっているところだった。花婿花嫁は、カメラを向けると嬉しそうに笑ってくれた。おどけた顔までしてくれた。闖入者の外国人に、日本の若者はこんな笑顔をするだろうか。

このレストランで水牛のヨーグルトを食べた。「○○ブルガリアヨーグルト〜」のCMが耳についているので、ブルガリといえば、ヨーグルトしか思い出せない人も多い。それほどヨーグルトが当たり前の国でも、水牛のヨーグルトは貴重らしい。クリームのように、濃厚な味だった。ヨーグルトは長寿のもとだというが、ブルガリアの平均寿命は男性が69歳、女性は74歳。世界一の長寿国日本に比べると、はるかに短命だ。

陽気な花婿花嫁 伝統的な民家 正教の教会

アルバナシ村のレストランで結婚式。陽気な花嫁さんと花婿さん。 

文化財に指定されている村の屋敷。自然石の塀が情緒がある。 

オスマントルコに支配されていた頃の正教の生誕教会。外観は地味だが中のフレスコ画はすばらしい。 

アルバナシ村は、古都ヴェリコ・タルノヴォ近郊の村。オスマン帝国のスレイマン1世が、義理の息子にアルバナシ村を贈った。その時に、税を納めなくてもいい特権を得たので、村人は立派な屋敷を建てることができた。そのうち36の家が、文化財に指定されている。

 昼食のあとで村を少し歩いた。自然石を積み重ねた塀に朱色の瓦屋根がある風情は、沖縄の村と少し似ている。趣のある通りが続いているが、時間帯が悪いのかあまりにもひっそりとしていて、村人がいない。マラムレシュのような所かなと期待していたのだが、土地の人との触れあいがなく期待はずれ。

訪れた生誕教会は、ブルガリア正教の教会だが、オスマントルコに支配されていた時に建てられたもの。高いドームなく、聖堂を塀で隠すようにしているので外からは目立たない。でも内部のフレスコ画やイコンは、地味な外観とは対照的に見事だ。約3500人が描かれているという。クリーニングする前はろうそくの煤で黒ずんでいたが、今は鮮やかな色彩が蘇っている。撮影禁止だったので、数枚の絵はがきを買った。

次はジェルニャッツア村の琴欧洲の実家に向かった。以前は琴欧州と書いたが、州を洲に改名したそうだ。旅の日程表には「実家訪問」と出ていたので、約束でもしているのかと思ったら、突撃訪問だという。誰もいなかったら塀越しに家を見るだけ、ベルを押しても拒否されたらそのまま帰るしかない。

 運がいいことに、お父さんは普段着のまま気さくに出てきた。やっぱり背が高い。後で聞いたら195a。ガイドのゲオルギ君も180aを越えているが、2人が並ぶとゲオルギ君が小さく見える。ちなみに琴欧洲は203a。


琴欧洲の実家 琴欧洲のお父さんとドライバー ロバのいる村

日本語で琴欧洲の垂れ幕がかかっている実家 

琴欧洲のお父さんとドライバー 

実家の前の道路にロバがいた。のどかな農村だ。 

2階家の外壁には琴欧洲という垂れ幕がかかっていた。門を入ると、鶏が10数羽放し飼いにされている光景が目に入った。通された玄関脇の2つの部屋は、琴欧洲ずくめ。彼が家を出る前に使っていた部屋には家族写真が、応接間には優勝したときの写真や結婚式の写真が大きく引き延ばされて飾ってあった。奥さんが日本人なのは知っていたが、初めて写真を見た。安藤麻子さんという名前も、ガイドのゲオルギ君に聞いた。

 こんな風にブルガリアでの琴欧洲の人気は非常に高くて、大統領から国民栄誉賞のような賞をもらっている。琴欧洲がいるから、日本に親しみを感じる人が多いという。それを考えると、外国人ばかりという嘆きが聞こえる大相撲だが、考え直さなければならない。

ブルガリアの価格は日本の6分の1だと言う。琴欧州が5000万円プレゼントすれば、3億円の家が建つと思うが、わりと質素な家だった。その質素さゆえに、琴欧州のお父さんにも琴欧州にも親近感を持った。写真撮影にも気軽に応じていた。中でもいちばん喜んでいたのはドライバーで、はしゃぎながらお父さんと肩を組んで写真におさまった。

帰り際に、裏がカレンダーになっている写真入りのカードを1人1人にプレゼントしてくれた。息子のファンを増やしたいという気持ちがあるにせよ、感じがよい応対だった。「名古屋場所は琴欧洲を応援しようね」と仲間と話したが、よりによってNHKの相撲中継が中止になった。「ブルガリア〜ヴェリコ・タルノヴォ出身〜」という独特のアナウンスが聞けなくて寂しい。

次はヴェリコ・タルノヴォ市の見学。1187年〜1393年に第2ブルガリア帝国の首都として栄えた古都である。オスマン朝との攻防戦の末に滅亡。その後、500年にわたってトルコに支配された。

 第2ブルガリが帝国の王宮が置かれたツアレベッツの丘に行った。3方向を川に囲まれた天然の要塞だったが、トルコに滅ぼされてからは瓦礫の山。でも石畳や城門が当時の雰囲気を偲ばせる。今回の旅では、遺跡をほとんど見なかっただけに新鮮だった。丘の上からはヴェリコ・タルノヴォの全景がきれいに見えた。

ツアレベッツの丘 職人街の職人 カップルとカメラマン

第2ブルガリア帝国の王宮があったツアレベッツの丘 

職人街で銅製品を作っているおじさん 

ホテルの部屋から撮った結婚式後のカップル 
。プロのカメラマンが撮影中。

丘を下り旧市街の職人街を歩いた。金銀細工・陶器・織物・革製品・木彫りなどの工房兼店が並んでいる。工芸品には欲しいものはなかったが、ブルガリア名物のバラジャムを数個購入。バラの産地に行くのは明日だが、もし買えなかったときの用心だ。

5時半ころホテルに到着。ベランダから川と橋がみえた。橋の上で花嫁と花婿がプロによる記念撮影をしていた。ウェディング姿を見たのは今日だけで3つ。アルバナシ村のレストラン、琴欧州の実家近くの村道には、りっぱな馬車に乗ったカップルがいた。そういえば今月はJune。しかも今日は土曜日だ。       
    <ヴェリコ・タルノヴォのインターホテル泊>  (2012年2月2日 記)


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