ルーマニア・ブルガリアの旅8 
 プロブディフとバチコヴォ修道院とボヤナ教会

2010年6月28日(月)−9日目

  プロブディフルーマニアブルガリアの旅1の地図参照)の町を、ゲオルギ君と一緒に歩いてまわった。プロブディフは人口約38万人で、首都のソフィアに次ぐ規模である。

2000年の歴史が凝縮しているジュマヤ広場 町の歴史は古く、紀元前19世紀にはトラキア人が住んでいた。侵略されやすい土地だったので、次々と支配者が変わり、紀元前4世紀には、マケドニアの主要都市だった。その頃は「フィリッポポリス」、ローマ時代には「トリモンティウム(3つの丘の意味)」、オスマントルコの時代は「フィリペ」と呼ばれていた。 

ホテルから歩いて10分ほどの所に、4000年の歴史が凝縮されたジュマヤ広場(左)がある、。高く聳えている銅像は、マケドニアのフィリポ2世。アレキサンダー大王の父である。

 ローマ時代の競技場跡も半地下の形で見える。余分なものを取り払えば、全容が蘇るような気がするが、計画があるのかどうかは聞きそびれた。オスマントルコのスルタンが建立した14世紀のイスラム寺院も建っている。狭い広場に、4000年の歴史が同居している。

 石畳の坂道をあがっていくと聖処女教会があった。朝のミサをやっていたので早々に引き上げる。さらに登っていくとローマの円形劇場跡に出た。3000人が収容される立派な劇場で、今でも野外コンサートが行われているそうだ。円形劇場を訪れるたびに、一番下の舞台まで下りてまた上がってくる無駄な行為をしているが、この日もそれをやった。上から眺めただけでは、ローマ時代の人になりきれないような気がするからだ。

 石畳を下りていくと、窓がせり出している木造の建物が目を引く。ピンク色の壁は、フランスの詩人ラマルティーヌが1833年に立ち寄ったので「ラマティーヌハウス」と言われる。

円形劇場   旧市街の門  窓が出ている家

今も野外コンサートをしているローマ時代の円形劇場 

旧市街の門 

窓がせり出している木造の家 

 

 坂道を下りながら見た聖コンスタンティエン教会は1832年の建立。オスマントルコに支配されていたので、外壁を高く作り中を見えないように工夫した。高い鐘楼はトルコ撤退後に作られた。

 石造りのアーチ型の門を出て、歴史の町の散策は終わった。

29`南のバチコヴォ修道院へバスを走らせた。建築の美しさ、壁画の芸術性のどれをとってもリラの僧院につぐという説明を受けた。1083年にビザンチン帝国から派遣されたグルジア人が開いた僧院。内部は撮影禁止なのでうろ覚えだが、これまで見てきた正教会と同じく、天井や壁にはフレスコ画。正面のイコノスタシスにはたくさんのイコン。これだけフレスコ画とイコンに囲まれると、私もにわか正教徒になってしまう。

バチコヴォ修道院 ボヤナ教会は森の中 ボヤナ教会

バチコヴォ修道院 

ボヤナ教会周辺 

ボヤナ教会 


 ルーマニアの国境からほぼ南下してきたが、これからは首都のソフィアがある西に向かってに移動する。ヴィトシャン山の麓で遅いランチをとったあとに、ボヤナ教会ルーマニアブルガリアの旅1の地図参照)に行った。旅行会社の「印象に残った地は」というアンケートに、私はボヤナ教会をあげた。森に囲まれた静かな教会のフレスコ画が印象的だったからだ。11世紀に創建されたあと、13世紀と19世紀に増築された。

ボヤナ教会の壁画最後の晩餐のイエスや12使徒の表情がイキイキしている。最近は本やパンフレットを買わないようにしているが、掟を破って買ってしまった。壁画保存のため1度に見学する人数が限られているので、二手に分かれて見学した。帰国後に、平山郁夫さんが、ボヤナ教会の壁画(左)を絶賛していたことを知った。

ソフィアのホテルには4時ころ到着。人口140万人の首都だけあり、洗練された都会である。

 ソフィアを仕事で37回も訪れたことがある同行のOさんは、ソフィアに入ったとたん、イキイキしてきた。「北にはバルカン山脈、南にヴィトシャン山、西にはリュウリン山。雪山で真っ白になったときなど本当にきれいな町でしたよ」と語る。「当時の取引先にお知り合いはいないんですか」「もう30年も前ですから、退職しているでしょう」

夕食までに少し時間があるので、ホテルから徒歩10分ほどのショッピングセンターに行った。旧共産圏での西洋式のスーパーマーケットは驚かなくなったが、ブルガリアらしいものはないかと探しまわる。でもEU圏が広がるにつれ、その国独自のものを探すのはむずかしい。 

      <ソフィアのアネルホテル泊>  (2012年3月2日 記)


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