南米の旅 11回
 クスコの民族衣装
  

2005年9月12日(月)−11日目


生きているクイ丸焼きのクイクスコでの夕食は、フォルクローレ(民族音楽)を聴きながらのビュッフェスタイル。

小島さんが「クイ(天竺ねずみ)は必ず食べ下さいね。名物ですから」と勧めた。きのう民家の納屋で、生きているクイ(左)がちょろちょろしているのを見ている。それを思い出すと、食べる動作は鈍くなる。なんせ目も足もついている「ねずみ」の丸焼きだ(右)。世界は広いなあ。ねずみを美味しいと思う人種もいるのだ。

 今回のツアーでは、アルゼンチンタンゴ、ブラジルのサンバ、アンデスのフォルクローレと、その国の代表的な音楽を見聴きしながらの夕食が3回あった。いちばん感動したのは、今日のフォルクローレだった。魂が揺さぶられるとは、こんな時に使う表現かもしれない。 <クスコのホテルサボイプラザ泊>

9月13日(火)−12日目

午前中は、クスコ市内の見物。引き続き、ガイドは小島さん。今日は、ペルー人の医者が観光に同行した。高度3500bのクスコに飛行機で到着したのは一昨日の11日。クスコ近郊やマチュピチュを観光後、またクスコ市内に戻ってきたのだが、「高地に慣れた頃の医者など役立たないのに」と、内心ではあきれていた。

実は、一昨日、マチュピチュ行きの列車に乗る頃に、同行の女性が高山病らしき症状になった。ぐったりと横たわったまま話もしないし、食事もしない。こんな時こそ、医者が必要なのに、この日は同行していなかった。いつも元気で楽しそうな人だけに、びっくりしてしまった。

 高地3日目でも高山病にかかる人が多いことがわかった。医者がバスに乗り込んでくるや、症状を訴えた人が3人もいた。なぜか女性ばかり。医者がどんな治療をしたのかわからないが、3人は観光スポットでもバスの中に残っていた。思えば、この旅は初日から強行軍だった。それに高地という要素が加わったのだから、たまったものではない。あまり丈夫でない私が元気だったのは、なにゆえかわからない。

まずサント・ドミンゴ教会(コリカンチャ)を見学。ここは、インカがスペインに侵略された象徴のような建物だ。今は教会になっているが、インカの頃は、コリカンチャと呼ばれる太陽の神殿だった。黄金の祭壇、金が敷きつめられた畑、等身大の人間像など、まばゆいばかりの金であふれていたという。

 スペイン人は、欲しいものをすべて略奪した後に、神殿の上部を壊して残った土台に教会を建てた。クスコに大地震があったときに教会は崩れ落ちたが、土台の石組みだけは、ひずみひとつ起こさなかった。「インカの石組みの精巧さを表す良い例ですね」と、小島さんは、インカの素晴らしさを強調した。黄金は残っていないが、この石組みを見るだけで充分価値があった。

 スペイン人が略奪した金製品は、本国に持ち帰った。あまりに大量の金が一時的に入ってきたために、ヨーロッパではインフレになったという。

12角の石

 細いアトン・ルミヨク通りは両側がインカの石組みの石垣になっている。なかでも12角の石(左)は、必見だ。4角に切れば楽なものをわざわざ12角にし、それをぴったりと合うように石を切っている。カミソリ1枚も通さないと言われるほど、ぴたっと組み合わされ、寸分の隙もない。

 最後はアルマス広場。カテドラル、レストラン、高級土産物屋が連なる町の中心である。アルパカのセーターが日本で買うよりずっと安いので、夫用に買った。安くてびっくりのアグアスカリエンテスの露店と違い、1円も値引きしてくれない。ひとつ1ダラーが、いつの間にか、3つ1ダラーになる店ではなかった。

クスコの町の面白さは、民族衣装の女性が、普通にたくさん歩いていることだ。ひだの多いカラフルなスカート、帽子もユニークである。今の日本で、和服の集団などは、お茶会の帰りにでも出くわさないかぎり見ることが出来ないが、クスコでは、下のような写真は何枚でも撮れる。


座り込む女性 買い物帰り 母子 パン売り
座り込む女性 買い物帰り 母子 パン売り

クスコ発(1時15分)→アレキパ経由→リマ着(4時15分)。クスコとリマは飛行機で1時間の距離だが、迂回便に乗せられたので、3時間もかかっている。

リマから、南部の町・イカまで約300キロを、アメリカンハイウェイで南下した。ガイドは再び、川又さん。リマの出発が予定より2時間も遅れたうえに、300キロも走らねばならない。結局イカのホテルに到着して夕食にありついたのは、夜の10時を過ぎていた。

イカのホテルは立派なリゾートホテルだったが、こんな時刻に着いたのでは、ホテルの善し悪しなどどうでもいい。<イカのホテルラスドーナス泊>(2006年11月16日 記)

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