南米の旅 2
ブエノスアイレスのボカ地区

2005年9月4日(日)―3日目

 やっとの思いでたどり着いたブエノスアイレスを、今日の午後には離れる。だから、朝早くから観光に出発。

 まずボカ地区へ。ジーコジャパンのFW・高原選手が、数年前に「ボカジュニア」というチームに属していたが、ここが本拠地だったのだ。サッカー場も、ちらと見えた。

 かつて、ヨーロッパからの移民はボカ港に着いた。「母を訪ねて三千里」のマルコが着いたのも、この港だという。アルゼンチンタンゴは、船乗り達が娼婦相手に踊り始めたものだった。ボカ港は、タンゴ発祥の地でもある。

 港が最盛期だった頃の面影はある。夜には歓楽街(左上)に変わるらしい。

 ボカ地区にあるカミニートは、緑、黄色、青、ピンクなどカラフルな家(左)が並ぶ独特の路地。ボカ生まれのイタリア系画家キンケラ・マルティンのアイディアで、この街並みが生まれた。

 カミニート住民の80%はイタリア系だという。カミニートは路地の名前だが、タンゴの曲名にもなっている。

 
 次に向かったのは、ブエノスアイレス屈指の高級地のレコレータ地区

 その一画にあるレコレータ墓地も、最高級の墓地だ。ローマ神殿風の納骨堂(左)が6,400もあり、いくつかは国の文化財だという。

 エジプトのオベリスク風の塔を大通りに作り、ローマ神殿風の墓を建てる。「アルゼンチンの独自性はどこに?」と、憐憫さえ覚えるが、日本とて同じような事をやっているから、偉そうなことは言えない。

 いつも花束が絶えないのが、ペロン大統領夫人だったエバ・ペロン(1919〜1952)の墓。私生児に生まれたエバは、貧困の少女時代を送ったが、女優を経て大統領夫人にまで上り詰めた。権力を使い貧しい人を救う一方、国を私物化したとも言われる。ミュージカル「エピータ」は、彼女がモデルだ。



 昼食は、空港の待合室で幕の内弁当(右)を食べた。日本のコンビニ弁当とは比べようにもないほど良い味だ。これ以後、数回食べたが、どれも満足できる味だった。帰国後に、ブラジルに駐在していた知人にその話をすると「ほんとに美味しいのよ。昔の日本の味を知っている日系人が作っているから」ということだった。

12時35分 ブエノスアイレス発→14時15分 イグアス(アルゼンチン側)着

 いよいよ、今回の旅のハイライトのひとつイグアスの滝を見物する。ナイアガラの滝も、アメリカ側とカナダ側があるが、イグアスも、アルゼンチンとブラジルの二ヶ国で見学できる。

 現地ガイドの坂田さん(右)が、イグアスの小さい空港に出迎えてくれた。38歳で子どもが3人いる。父は6歳の頃、ブラジルに来た1世、母は2世、ご主人は3世だという。1世、2世、3世という言葉からわかるように、日系人同士での結婚が多いようだ。

 坂田さんは日本に行ったことはないが、日本語は流暢だ。「子どもたちも日本語を勉強して欲しいけど、なかなかうまくいかない。日本語が出来れば私や夫のように、日本語を生かした仕事につけるからと励ましているんですよ」と話してくれた。ご主人は、パラグアイのパナソニック勤務。毎日国境を越えて通勤している。横浜から東京に通うようなものだから、驚くにあたらない。

 最初は、アルゼンチンのバスに乗りイグアスの滝公園に向かった。15時30分 トロッコ電車(右)で、終点へ。

 終点から、「悪魔の喉笛」と言われる地点まで歩いた。喉笛と言われる滝は、ブラジル側にすさまじい勢いで流れ落ちている。水量の多さ、うなるような轟き、辺り一面の水しぶきに驚く。まるで暴風雨の中にいるようだった。壊れてもいいように、古いデジカメで、いそいでシャッターを切ったが、コンパクトカメラで表現するのはむずかしい。

 トロッコ電車で一つ戻った駅に下車。遊歩道を歩きながら、さまざまな角度からイグアスの滝を見学した。ナイアガラの滝は一個所に固まっているが、イグアスの滝は大小300もの滝があり、規模はずっと大きい。滝幅4q、最大落差80bと言われる。太陽が出ていれば虹が出来る。何度も七色の架け橋を見ては歓声をあげた。 陸路でブラジルに入国。明日もイグアスの滝見学だ。写真は次回にまとめて載せる予定。  <ブラジルのトロピカル・ダス・カタラタス泊> 
(2006年6月27日 記)

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