南米の旅 4
アマゾン川とマナウス

2005年9月6日(火)-5日目

マナウスはアマゾン川のまっただ中、南緯3度、ほぼ赤道上にある都市である。アマゾン川は、熱帯雨林を貫く大河だ。地図帳を眺めるのが好きだった中学の頃は、理由もなくアマゾンにロマンを感じていたが、その地に立てる日が来ようとは、思いもしなかった。

 土着のインディオとポルトガル人・スペイン人との出会いは、アメリカ大陸のどこでも言えることだが、16世紀から17世紀。弓と銃の出会いだった。ブラジルの公用語がポルトガル語ということからも、弓と銃の勝敗はあきらかだ。

 密林の町・マナウスが繁栄したのは、19世紀末のゴムブームによる。1860年には3,500人だった人口が19世紀末には40万人から50万人にまで増えた。

ヨーロッパ人は、現地人が履いている長靴を見て、天然ゴムの存在を知ったという。当たり前のように履いているゴム長靴の歴史は、意外に短いのだ。

 ヨーロッパ人は、ゴムの種を、同じような気候の東南アジアにも持ち込み、プランテーションを作った。10年以上前だが、マレーシアで、天然ゴムのプランテーションを見たことがある。

 天然ゴムを知ったヨーロッパ人が大挙して押しかけ、ジャングルの町は華やかな町に変身した。それを象徴する一画がセバスチャン広場。黄色と白の明るい外観のカトリック教会や、大航海時代を表すモニュメントもある。

 なかでも、1896年に出来たアマゾナス劇場(左)はスカラ座やオペラ座と遜色ない。ルネサンス様式のオペラハウスで、一流の歌手がヨーロッパから招かれたという。

 劇場の内部は、建築材まですべてヨーロッパから取り寄せただけあり、贅をつくしたものだ。この劇場を見ると、ゴムがもたらした富がいかほどのものであったか、想像できる。床下に通風口があり、インディオが人力で風を送っていたという。征服された者は、こんな待遇に置かれていた。アマゾネス劇場は、今でもコンサートやオペラが開かれている。


 アマゾナス劇場からさほど離れていない場所に、今にも崩れ落ちそうな家(左)が建っている。こういう落差を見ると、豪華な劇場も色あせてくる。この後に訪れたリオデジャネイロにも、たくさんの貧民街があった。この国の人達が、サッカーやサンバに夢中になるのもわかるような気がした。

 ゴムについで、麻の栽培も盛んになった。1930年ころに、およそ300家族の日系人が入植し、麻の種を持ち込んだ。1936年には紡績工場が完成。1970年頃になると、ナイロンに押されて麻の需要が激減したが、最近は麻の良さが見直され、麻に従事する人が増えているとか。

現在のマナウスは産業都市として、自由貿易港として、発展し続けている。1973年に工業団地が出来たことで、大都会になった。現在の人口は170万人から200万人。ガイドの大塚さんの話をメモしたものだが、人口にこんなに幅がある。国勢調査などないのかもしれない。

日系企業は、オートバイ、自動車、電機など45も進出している。「なぜこんなに暑い所に工場を作るんだろう。暑くて効率が悪いでしょうに」。私のつぶやきを聞き逃さなかった大塚さんが「貿易港があるので、便利なんですよ」と、明快に答えてくれた。8人の日本人先生がいる日本人学校もある。生徒は約50名だというから、生徒数の割に先生が多く、羨ましい環境だ。ここの校庭で、毎年盆踊りが行われ、日系企業の人ばかりでなく、日系2世や3世も集まる。

 今日の観光の最後は、「アマゾン自然科学博物館」 蝶の収集にのめりこんだ日本人の橋本さんが、館長だ。アマゾン流域の蝶や昆虫、魚の剥製の展示をはじめ、生きた魚を見せる水槽もある。

 世界最大の有鱗魚・ピラルクーも5〜6匹、水槽を泳ぎ回っていた。ガラス越しに近寄ってくるピラルクーは、なかなかの貫禄だ。1億年も姿を変えないので、「生きた化石」とも言われる。翌日「生きた化石」の唐揚げを食べたが、タラと似た味でさっぱりして、美味しかった。うろこは、普通の魚のように軟らかくない。爪を磨くにも好都合、アクセサリーにも加工されるほど固い。

 ホテルでは、夕食時に踊りを見せてくれたが、今朝のモーニングコールは3時半。眠くないはずがない。ほんの少し見ただけで、引き揚げた。<マナウスのトロピカルホテル泊>

9月7日(水)―6日目

 今日は、一日中、アマゾン川を楽しむことになっている。最初に、ホテル内にあるミニ動植物園を見学。熱帯特有の猿・鳥・樹木を手軽に見るには、便利な施設だ。

 ホテルはネグロ川の川べりに建っているので、歩いて桟橋に出た。川の水位が低いのは8月から2月。3月から7月は水位が高い。12bも差があるので、果樹園などは、はじめから高台に作られる。

 9時にアマゾン川クルーズに出発。マナウスは、ネグロ川に接しているが、ソリモインス川との合流地点まで、35キロ、2時間の距離を船に乗った。合流地点から下流までを、アマゾン川と呼んでいる。

ネグロス川は文字通り青黒っぽい色をしているが、ソリモインス川は黄土色。2つの川が合流してもは、すぐには混じり合わないので、はっきりと色の違いがわかる(左)。ネグロ川の水温が28度、流速が3〜4キロ、ソリモインス川の水温は22度、流速が7〜8キロ。川の色も速度も水温も、極端に違うのだ。

 

 船内でランチ後、小舟に乗り換えてピラニア釣りをすることになった。ピラニアが、人間サマの肉を食いちぎる恐ろしい魚だということは、私でも知っている。たしかに、鋭い歯がついている。大塚さんは、指をちぎられたこともあるという。釣りを手伝ってくれるお兄さんが、口を開けて、歯(左)を見せてくれた。

 ツアーの仲間は、3舟に分乗してピラニアを釣った。釣りなどしたことがない私だが、5匹も釣れた。1匹しか釣れない人は、相当焦っていた。しかし私とて自慢できる技があるわけではない。牛肉の餌をつけてくれたのは、小舟に乗っているお兄さん、釣った魚を針からはずしてくれたのも、お兄さん。言われたままに、竿をパシャパシャ動かして、手応えがあれば、水の上に持ち上げるだけだ。もちろん食い逃げされたこともある。

 パシャパシャ動かすのは、動物が溺れたと勘違いしたピラニアが寄ってくるからだ。帰国後に「ピラニアを5匹も釣ったのよ〜そしてそれを食べたのよ〜」と、あたかも自分の手柄のように話してしまった。

  釣りの後は、いよいよ、ジャングルトレッキングだ。大オニバス(右)や、ゴムの木(右)、巨大なアリの巣など見て回ったが、ジャングル探険というより、森林浴のようなものだった。水位が低いので、道も乾いているし、ジャングル特有の湿り気もない。覆い被さるような大木もない。この探険を楽しみに参加した人は、がっかりしていた。本格的に歩きたい人には、別なツアーが用意されている。

 大塚さんは、私達のツアーガイドが終わった後に、ヨーロッパ人の学者たちを、2週間ぐらい案内するそうだ。

 昭和33年に密林に入植し、高校に入るまで密林で過ごした大塚さんは、動物や鳥の鳴き声も上手だ。彼が奇声をあげたら、すーっと鳥が飛んできた。知識も豊富なので、密林の案内者として彼ほどの適格者はいないだろう。




 元の大きな船に戻り、さきほど釣ったピラニアの唐揚げを食べた。3舟で115匹も釣れたが、全部は食べきれない。世話をしてくれた人のお腹に入ったようだ。小骨は多いが実に美味しかった。

陸に上がった直後に、熱帯特有のスコールに見舞われた。15分後には、また青空が広がった。私たちは、赤道直下にいるのだ。
<マナウスのトロピカルホテル泊>(2006年8月2日 記)


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