南米の旅 5
マナウスからリオへ

2005年9月8日(木)―7日目 

 今日の午前中は、まだマナウスにいる。まずリスボア市場(左)に行った。アールヌーボー式の建物で、パリで使っていた市場を解体して持ってきたという。アマゾネス劇場同様、ゴム景気でわきかえっていたころの名残だろう。

 アールヌーボーの建物にそぐわず、中はごった返していてポルトガル語が飛び交う。野菜・魚などの生鮮食品や、豆・タピオカなどの乾物、民芸品などありとあらゆる物が揃っている。

  野菜を売っている人の多くは、明らかに日系人だ。大塚さんの親も、入植後に野菜を市場に持ってきたが当初は売れなかった。当時の現地人には、野菜を食べる習慣がなかったからだ。

いちばんの見どころは魚売り場。名前はわからないが、アマゾンでとれる巨大な魚をさばいていた。

 旅行者が魚を買わないと分かっていても、写真を撮りやすいように、魚をたてかけてくれるなど、フレンドリーだ(左)。きのう水族館で見た「生きた化石」のピラルクーの切り身(右)も売っていた。

 次は、インディオ博物館へ。アマゾナス州には、いまでも先住民の部落が167もある。全国では330ある。政府が、インディオを保護しているので、330も残っているのだろう。

 博物館には、先住民・インディオの生活用具や宗教儀式の道具、狩猟に必要な物・織機。楽器などが展示(左)してあった。

 これらを見ると、彼らは彼らなりに平和で豊かな生活をしていたことがよく分かる。スペイン人・ポルトガル人の侵略がなかったら、南米はどうなっていたのだろう。

 ツアーは観光中心なので、現地の人とのふれ合いは少ない。それを少しでも補うために、大塚さんに聞いた他の話を、メモにしてみる。

☆ 平均寿命は男性が60歳から65歳。女性は65歳から70歳。1歳半前に亡くなる男の子供多いので、マナウスの人口の6割は女性だ。
☆ 車は一家に2〜3台ある。車検がないので、排ガスはきたないし、落書きもすごいが、貧しい人は古いのをもらって乗っている。
☆ 通貨の単位がしょっちゅう変わる。トストン→コントフェス→クルゼール→クルザード→ノーボと変わり、1994年からはレアル。
☆ 18歳で徴兵される。
☆ 最低給料は300レアル(15,000円ぐらい)。これでは赤字なので、それぞれ副業を得ている。
☆ 15〜16歳で妊娠する子が多いので、社会問題になっている。

9月8日−9日目

 マナウス発(14時30分)→ブラジリア経由(機内待機)→リオデジャネイロ着(20時30分)

 日本の23倍もある広大なブラジルを南から北、北からまた南へ移動している。どう考えても無駄な動きをしているが、航空会社の都合だろうか。直行ではなく途中で機内待機があるので、ますます時間がかかる。この間、ビジネスクラスに乗ることが出来たのが唯一の救いだ。

 リオのガイド柴田さんの出迎えを受けたのは夜の9時半になっていた。柴田さんは「昨日から冷たい南風が吹いている」という言い方をした。日本なら「冷たい北風」なのに。

宿泊はシェラトンホテルだが、すぐ脇にスラム街がある。一流ホテルが、スラム街と隣接しているのも妙なものだが、リオの30〜35%はスラム街だそうだ。490個もスラム街があり、スラム街同士で争っている。           <リオのシェラトンホテル泊>

9月9日(金)―10日目

 丸1日かけて、リオデジャネイロを観光することになっている。中学の時に「ブラジルの首都はリオデジャネイロ」と覚えたが、首都は1960年にブラジリアに移ってしまった。首都でなくなったとはいえ、観光スポットはリオに集まっている。人口は700万人を超え、サンパウロに次ぐ第2の都市。サンパウロは商工業の都市。

 リオの柴田さんとマナウスの大塚さんは、同じ頃に日本から移住してきて年格好も同じだが、雰囲気はだいぶ異なる。もともとの性格なのか移住地の違いなのか。

ガイドだから、観光ポイントごとに知り合いがいるわけだが、その女性達がみんな「シバータ」と抱きついてくる。カリオカ(リオ育ちの人)は、底抜けに明るいと聞いているが、柴田さんも負けず劣らず陽気だ。左写真は、急いで撮ったので、妙な画像だが、雰囲気はおわかりと思う。

自分の生い立ちについては語らず、説明も表面的な冗談話に終始したので、少々もの足りないガイドではあったが。(2006年8月16日 記)

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