南米の旅 7
リオからリマへ

2005年9月9日(金) −8日目

ブラジル・リオデジャネイロのコルコバードの丘の続きを書いている。

 遠足の子ども達は、みな陽気で人なつこい。カメラを向けると、大騒ぎでポーズを取ってくれる(左)。私達もカメラを向けられてしまった。

子ども達の顔を見ると、ブラジルの人種の多様性がわかる。ブラジル全体の統計では、白人系55%、混血38%、黒人系6%、アジア系1%。純粋な先住民はほとんどいない。サッカー選手に白人が少ないから、白人はもっと少ないかと思ったが、半分以上を占める。日系移民は、割合からするとごくわずかだ

 漢字を入れ墨にしている若者もいた。「始」を首に、「真」を手に(左)。「写真を撮らせてね」と頼んだら「いいよ」と立ち止まってくれた。意味がわかるかと聞いたら、「beginning  and truth」の答えが返ってきた。

次はコカバーナビーチへ向かった。柴田さんは、「トップレスの女性がたくさんいるかおら楽しみに」と盛んに言っていたが、まだ春先なので、トップレスはいなかった。

 しかし、土日でもないのに、たくさんの人が海岸にビニールシートを敷いて、楽しそうに騒いでいた。もちろん、ビーチには欠かせないカップル(右)もいる。

 サッカーもバレーボールも日本はブラジルに適わないが、その両方を組み合わせたビーチサッカーバレーに興じるグループもいた。

「スーパーマーケットに行きたい」と言ったら、宝石店経由で、スーパーにも寄る算段をしてくれた。宝石は興味がないが、庶民が通うマーケットはおもしろい。本場コーヒーを20箱ぐらい買った。

 海岸沿いのレストランで海鮮料理の夕食後、サンバショー(左)へ。ショーは、夜の10時半から12時半まで。明日のモーニングコールは4時だ。これでは身体が保つはずがない。夕食をパスした人、サンバショーをパスした人がいたのは当然だ。とんでもない行程を組むものだとあきれてしまった。柴田さんが「リオに来たらこれを見なくちゃあ」と強く奨めるので11時半までは見物した。それでも睡眠は4時間もない。  <リオのシェラトンホテル泊>

2005年9月10日(土)―9日目

リオ発(7時)→サンパウロで乗り継ぎ→ペルーの首都・リマ着(午後2時) 
 ブラジルのリオとペルーのリマには2時間の時差があるので、リオからリマまでは、乗り継ぎを含めおよそ9時間もかかった。南米大陸の東から西への移動だが、広さを実感する。リオとリマは混同しやすいが、リオはリオデジャネイロの略。長いので、「リオのカーニバル」のごとく、省略して呼ぶ。リマはペルーの首都だ。

 3時頃に、リマの観光に出発。ガイドは、日本人女性・川又さん。日本から勉強に来て、そのまま居付いていると話していた。私が買った「ペルー発見」という本の訳者は、川又さんだ。ガイドの仕事だけでなく、インカ文化を研究しているらしい。

 まず、リマの南30キロにある海岸のパチャカマ遺跡へ。リマは冬の季節が終わったばかりだし、すぐ側を寒流が流れているので寒い。数日前に、赤道直下にいたので、気温の変化についていけない。

 パチャカマ文化は、600年頃に海岸地帯に発生した文化。ここを征服したインカによって、パチャカマ(天地の創造者)と名付けられた。インカ文明すらよく知らないのに、プレ・インカ文明は、なおさらわからないが、バスで巡ったほど広大な遺跡だ。

 川又さんは「日本人の島田泉教授が、35体のミイラを発掘したばかりです。まだ新聞にも載っていないので秘密です」と話した。こんな秘密を打ち明けられても遺跡の重要性を理解していないから、豚に真珠だ。1年も前のことだから、もう話してもかまわないだろう。

 帰国後に知ったのだが、島田氏は小さい頃に移民船でアメリカに移住し、南イリノイ大学の教授にまでなった。1992年、ペルー北部の森林地帯の遺跡から、巨大な黄金の仮面を含む大量の遺物を発掘した。この時に発見した文化を「シカン文化」と言うが、命名者はもちろん島田泉教授である。

 征服者インカは、パチャカマの信仰を禁止せずに、新たに太陽の神殿や月の神殿を建てた。しかし後に侵略したスペイン人によって、火を放たれ、廃墟になってしまった。

 小中学生らしき団体(左)が見学に来ていたが、授業にしては時刻が遅すぎる。希望者には、放課後に課外授業をしているそうだ。ペルーの子ども達も、ブラジルの子どものように、人なつこい。説明を聞かずに、私たちに話しかけるので、先生に注意されてしまった。

 ここにも、いろいろな顔つきの子どもがいる。日本人のような顔もあれば、スペイン人の顔、インディオの顔もある。

 市内に戻り、アルマス広場に立ち寄った。インカ帝国を征服したスペイン人のピサロは、都をクスコからリマに移した。新しい都をスペイン風に築いたので、この広場もスペインの匂いがある。大統領府やカテドラルなど、外観をざっと眺める時間しかなかった。

現地人に対しさんざん悪事を働いたピサロだが、現地人に殺されたのではない。1541年に、仲間のスペイン人に暗殺された。遺体は、アルマス広場のカテドラルに安置されている。

 立派な騎馬像はサンマルティン広場(左)にある。リマ建都400年の1935年に作られた。車窓から上手に撮れなかったの、これは絵はがき。

 インカにとっては悪人だが、のちのペルーを作り上げた人には、偉人なのだろう。

 ちなみに、ピサロの生まれたスペインの小さな町トウルヒージョにも小さな頭像がある。ネットでの知り合いnapoさんから、情報と写真(右上)をいただいた。napoさんは、スペインに4回もロングステイした方である。

 上の文を読んだ近所に住む友人Sさんが「トウルヒージョに騎馬像もあったわ」と写真(左)を送ってくれた。ツアーで行ったときに立ち寄ったという。写真で見ると、台座も背後の建物も立派だ。スペインでも英雄なのかもしれない。(この数行は10月追記)

 次は実業家のヨーガ氏が蒐集した黄金博物館へ。リマには、学術的に優れた博物館が他にたくさんある。「どうしてそちらを見ないの」と聞いたら、「黄金の展示物が多いので、旅行者が喜ぶから」と川又さんは言っていた。これでもかこれでもかの黄金の展示品を見ると、スペイン人が侵略した頃のペルーがいかに豊富な黄金に恵まれていたかがわかる。撮影禁止だったので、写真はない。

 ホテルは、日本人経営のホテル。ここのレストランで出されたセビッチェというペルー料理がとても美味しかった。新鮮な魚や肉、スライスしたタマネギにレモンや塩を加えたもの。これ以後、セビッチェは何度も出たが、どこで食べてもおいしかった。<リマのニューコルパックホテル泊>
(2006年9月16日 記)

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