南米の旅 8
 インカの都・クスコ
   

2005年9月11日(日)―10日目

 今朝のモーニングコールは、2時半だった。今日は、高地のクスコに飛ぶ。「高山病にかかりやすいので、くれぐれも体調に気をつけてください」とガイドブックにあるが、こんな早いモーニングコールで、どうしろと言うのか。

リマ発(6時)→クスコ着(7時

リマから1時間の飛行で、高度3400bのクスコに着いた。3400bと言えば、富士山より300b低いだけだ。一気に高度を上げたので、順応できずにフラフラするかと思いきや、なんら変化はなかった。天気は快晴。高地ゆえに、太陽がなおさら近いように感じる。

はじけるような若い女性の小島さんが空港に待っていた。日本に良い就職口がなかったので、ペルーに来たと話していたが、真の理由はわからない。同じくガイドをしている日本人男性と結婚したばかりだ。

 クスコはインカ帝国の首都だった。左写真は、サクサイワマン遺跡の高台から撮ったクスコ市内。クスコは「へそ」を意味する。大インカ帝国を築いた人にとって、クスコは宇宙のへそ・中心だったのだ。

 インカ帝国の始まりはよくわかってないが、1250年頃にクスコを建都。領土を拡大したのは9代の皇帝パチャクティの時で、15世紀半ばである。スペイン人のピサロによって滅ぼされたのは1532年。インカの全盛は、100年足らずだったようだ。

インカには文字がなかったので、征服者スペイン人の記録だけが頼り。インカの興りがはっきりしないのも無理はない。16世紀と言えば、ほとんどの国には文字があり、文明社会を営んでいる。なぜインカが高度な文明を生み出しながら、文字を持たなかったのか。インカにまつわるたくさんの謎そのものよりも、文字を持たなかったことが不思議でならない。

 まずサクサイワマン遺跡へ。クスコの東を守る堅固な要塞跡である。インカの9代目皇帝パチャクティの時代、1460年頃に築かれた。

 遺跡は3層からなる巨石のジグザクが360bも続く(左上)。なぜジグザグなのか、よくわかっていない。

 「インカの石組み」が頑丈でしかも美しいことは、耳にしていたが、初めて見る石組みに驚いた。いくつもの巨石が、アリさえ入り込めないほどピッタリかみ合っている(左)。もちろん接着剤など使っていない。巨石を山の上までどうして運んだのかも謎だ。運搬手段である車輪も、加工に必要な鉄の存在もインカの人は知らなかったのだから。

 でもこの石組みは、エジプトのクフ王のピラミッドが作られた頃より、4000年も後のこと。「謎だ」を連発するのも、インカの人々に失礼かもしれない。

巨石の上に立つと、クスコの市街地が眼下に見えた。要塞の役目を果たしていたことの証でもある。さらに高い所に立てば、もっと見えるかもしれないと、いつもの旅の癖が出て、3層のいちばん上に登ってみた。後で考えると、3400bの高地で無茶なことをしたものだ。高地に慣れてきた頃ならまだしも、クスコに到着して1時間後のことだ。幸い、この日の私の体調は良かったようだ。

 要塞の広場では毎年6月の冬至に、太陽の祭が開かれる。南半球にいるとわかっていても、「6月の冬至」という言葉にびっくりしてしまう。

 広場付近に、民族衣装を着た親子連れ(右)がいた。リャマも連れている。リャマは、瘤はないがラクダ科。やはりラクダ科のアルパカに似ているが、アルパカはもっと高地にいる。セーターに加工した場合も、アルパカの方が高い。

民族衣装とリャマとくれば、写真を撮りたくなるものだが「1ドル要求されます」と小島さんが注意した。親にも子どもにも笑顔すらないので、つまらない写真になりそうだが、1ドルが生活の糧になればと、シャッターを切った。

 お金を得る手段が他にないのかと思うが、貧しすぎると思考すら失ってしまうのかもしれない。「ペルー発見」の本によれば、国民の約63%が貧困ラインを下回る生活をしている。



 サクサイワマンから徒歩5分のケンコー遺跡(右)は、石組みではなく、大きな石の塊がいくつか並んでいる。

 石の塊全体がモニュメントのようになっていて、宗教的な場だったと考えられている。

 ケンコーから4キロ離れたタンボ・マチャイ遺跡に向かう途中、民家に立ち寄った。K社の日程表には「田舎家庭を訪問し、アンデスの人々の素朴な生活の様子を見学します」とあったが、こういう類のほとんどは期待を裏切られる。土産物屋のような家だった。付近にいた子ども達の貧しげな様子だけが心に残った。風呂に何日も入っていないのだろう。顔も洋服も汚れている。 (2006年10月2日 記)

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