南米の旅 9
 聖なる谷からマチュピチュへ
 


2005年9月11日(日)-10日目

タンポ・マチャイ遺跡 クスコ郊外にあるインカ遺跡の続きを書いている。「インカの石組み」で作られたタンボ・マチャイ遺跡(左)は、聖なる泉とも呼ばれ、雨期・乾期ともに同じ量の泉が湧き出ている。インカ時代の沐浴場と、考えられている。不思議なことに、水がどこから流れてくるのか未だにわかっていない。

 タンボ・マチャイから近いプカ・プカラ遺跡は、石にわずかな赤が残っているので、赤い要塞とも言われる。タンボ・マチャイやクスコへの出入りを見張っていたようだ。

聖なる谷 バスは聖なる谷と呼ばれる地域を走る。深い谷では、インカの末裔が伝統的な生活を営んでいる。アンデスの空気とアンデスの人の息吹を感じる谷でもある。道路沿いでは、手作りの人形や小物を売っている(右)。素朴な人形なので、思わず買ってしまった。余計な物は買うまいという決心はどこへやら。

ウルバンバ村で編み物をする人アルパカの肉 ウルバンバ村のレストランで昼食。寿司、セビッチェ、果物、ケーキなど盛りだくさんで目移りする。

 ガイドの小島さんが「アルパカの肉(左)が珍しいですよ」と奨めてくれたが、珍しい物が美味しいとは限らない。本物のアルパカ(ラクダ科の動物)には出会っていないのに、肉が先になった。

 ウルバンバの標高は、2863b。高山病の心配はない。花が咲き果物が実をつけ、桃源郷のような所だ。農家の庭先には、のんびりと編み物をしている女性(右)がいた。

 聖なる谷のほぼ中心にあるのが、オリャンタイタンポ。インカ時代の要塞とも宿場とも言われる。山の斜面全体が石を積み上げた城塞のようになっている。

 オリャンタイタンポ駅から、2時55分発の高山列車「ビスタドーム」に乗車。マチュピチュ遺跡の基地とも言えるアグアスカリエンテス駅に着いたのは4時半過ぎ。高山列車は文字通り、2000b以上の高地を走る。窓の左はウルバンバ川と段々畑、右は切り立ったアンデス山脈。天井はガラスになっているので景色はいいが、紫外線が強そうだ。紫外線の害を心配していると楽しめないので、この際は無視することにする。

 アグアスカリエンテスは「熱い湯」を意味し、温泉保養地もなっている。温泉はプールみたいなもので、日本の温泉のような情緒はなかった。標高は2000bほどで、クスコより1500bも低いので、高山病の心配はまったくない。ホテルは粗末だったが、そばに土産物屋が並んでいるので、そぞろ歩きするには好都合だった。インカの織物、セーター、民芸品、アクセサリーが安いので、又がらくたを増やした。       <アグアスカリエンテスのマチュピチュイン泊>


9月12日(月)―11日目

マチュピチュ遺跡 8時半にシャトルバスで出発。ジグザグ道を20分ほど走り、マチュピチュの麓についた。バスの終点から山道を歩くこと10分。写真で見慣れたマチュピチュ遺跡が目に飛び込んできた。途中はまったく見えないだけに、突然現れた遺跡(左)に、思わず歓声をあげた。

 マチュピチュは、NHKが募集した「行ってみたい世界遺産」でダントツ1位に選ばれた。私ならここを選ばないが、憧れを持つ気持ちもわからないではない。

 作られた目的も時代もわかっていない謎だらけの遺跡。しかも、山道を登り詰めたときに、急に視界が開ける劇的要素も加わっているのではないか。

 マチュピチュ遺跡は、マチュピチュ山麓の上にあるからの名前である。写真の正面に見える山は、マチュピチュ(老いた峰)ではなく、ワイナピチュ(若い峰)。この山の反対側にあるのがマチュピチュだ。標高2280bにある遺跡なので、雲に隠れて見えないこともあるらしい。この日の遺跡は、周囲の山に霧がかかり、まるで空中に浮いているように見えた。小島さんは「雲ひとつない晴れよりも空中都市らしいですよ」と、慰めか本気かわからない口調で話した。

到達証明書

 ここでも、到達証明書(右)をもらったが、苦労してたどり着いたわけでもないので嬉しくない。スキャン後は、棄ててしまった。

 インカ帝国の全盛期は、今のエクアドル、チリ、アルゼンチンまで延び、南米最大の帝国だった。1532年に、ピサロが率いるスペイン人によって滅ぼされたが、インカの抵抗は細々と続き、秘密基地のヒルカンバを作ったと言われる。そのヒルカンバは、どこにあるのか。探していたアメリカの歴史学者のヒンガムがマチュピチュを発見し、「これぞヒルカンバだ」と喜んだ。1911年のことだ。

 のちにヒルカンバは、さらに奥地だという事がわかった。それどころか、マチュピチュはインカの遺跡ではないという説も有力になっている。スペイン人が、ここまでは来ていない事は確かなのだ。

「地球の歩き方」には、「ヒルカンバでないにしても、逃げ延びたインカの人々の生活の場」と書いてあるが、小島さんは「現在の研究では、インカの都市の1つとは考えていないんです。虫も刺すし、湿気が多いジャングルにインカが都市をつくるはずがない。宗教施設、天体観測場、砦、農業作業場などいろいろ説がありますが、決定的ではありません」と、力説した。

 クスコ在住のガイドなので、新しい学説を勉強しているのだろう。インカ文明について本すら読んだことがない私には、何も言う資格はないが、彼女の説明は理に適っているように思えた。わけのわからない虫に刺されたことは確かなのだ。赤い斑点は帰国後1ヶ月も残った。

 作られた目的が何であれ、マチュピチュに住んでいた人々は、立派な遺跡を残したまま、姿を消したのである。遺跡の詳細は次項で。(2006年10月16日 記)


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